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4章.3 ――――何分経っただろう、上のほうからピアノの音が聞こえてきた。ドレミファソラシド、とオクターブ両手で弾いた後、何かを弾き始める。僕はその曲を知っている。 姉さんの、“子守唄”だ。 弾く前に音階を刻むのは姉さんの癖。 死刑を宣告されたような気分で、僕はふらふらと、ピアノの音に導かれるまま、殺人犯のもとへ向かった。 子守唄は僕を呼んでいるわけじゃない。 きっと、僕にも眠れと言ってるんだろう。 それとも、眠りたいのは姉さんのほうなのかな。 どっちでもよかった。どうでもいい。どうせ僕もきっと殺される。 自分の心臓が鼓動していることに気味の悪ささえ感じた。 ドアが開きっぱなしで、そこからやわらかなピアノの旋律が漏れている。 姉さんは部屋の真ん中の、ピアノの前に座っていた。僕の気配を感じて、唐突に鍵盤を叩くのをやめた。 「久しぶりね、シャルル」 鍵盤を見下ろしたまま呟く。 そしてゆっくり、僕を見た。 「変わってないのね」 二年近く経った今も、僕と姉さんは変わっていなかった。 大きな青い目、悪戯っぽい顔つき、無造作に伸びた髪は肩を過ぎたあたりで内側に軽く丸まっている――少なくとも見た目は何一つ変わっていない、僕の姉さん、シャノン・レグナシェス。 「大丈夫、シャルル? 気絶しちゃうと思ってたの。あれ見たでしょう? 強いのね、シャルル」 優しく微笑む姉さん。 この人は、人を二人も殺しておいて、どうして笑っていられるのだろう。 「姉さん……」 掠れた声しか出ない。 「姉さんじゃ、ない、でしょ? 姉さんが殺したくて殺したんじゃないよね? 何か理由があったんだよね……?」 「馬鹿じゃないの。どうして人に言われて人殺しなんてするのよ」 姉さんは呆れたように笑う。 「あの人たちはこの世に必要ないのよ。わかる?」 彼女は淡々と告げ、僕のほうへと歩み寄る。白いワンピースは血染めになっていた。 「有害なものは排除してしまうの。あっちの人間はそうなの」 僕は姉さんの瞳を見つめたまま身動きできなかった。 「シャルルのためにならないものは、要らないのよ」 姉さんは上を向いて目を閉じ、さっきの曲のワンフレーズをハミングした。彼女を囲むようにして、空中、独りでに白いバラの花が咲く。 「……どうして。母さんも父さんも、僕には必要だったよ……」 「ええそうね。貴方がそう思ってるだけよ。あの人たちは生きてる資格もないの」 僕を見つめて、姉さんは笑顔で続ける。 「シャルルをあの人たちと同類にするわけにはいかないの。シャルルは馬鹿だから簡単に騙されちゃうわ――そうしたら私、どうしていいかわからない」 何を言っているのかわからない。姉さんは僕の表情を見かねたかのように、そっと僕を抱きしめた。匂いだけが昔と違った。血の臭いだ。 「騙されるって、何……? 姉さんは今までどこに行ってたの? どうして……どうして今日……」 「シャルルは知らなくていいの。いずれ知ることになるから」 「嫌だ。教えてよ……せめて、どうして家出したのかだけでも……」 僕はたぶん、親のことなんてもうどうでもよくなっていた。姉さんをどこへも行かせたくない、その一心で声を出した。姉さんの子守唄が僕にそう働くようになっていたのかも知れないし、僕が甘えたがりだっただけかも知れない。 「駄目。教えたらシャルルは私のこと嫌いになっちゃう」 姉さんは僕を、ほんの少し乱暴に突き放して、窓際へと歩いて行った。 「嫌いになるわけない。教えてよ。教えて……」 姉さんが窓を開ける。朝の風が彼女の服を揺らし、髪をなびかせ、何処からともなく現れる白い花びらを舞わせた。 「それじゃあシャルル、おいで。あっちの世界。来たら何でも教えてあげる」 あっちの世界……つまり、かのおとぎ話の、異世界? 「ついでに私のネックレスも返しにね」 「嫌っ、待って、行かないで!」 姉さんはにっこり笑って、僕の足にイバラの蔓を絡ませた。駆け寄ろうとした僕は、足を取られて転んでしまった。動けない。 「シャルルは私のことが大好きなのね」 「当たり前だよ……痛いよ、やめて姉さん……!」 蔓がまるで、獲物を絞め殺す蛇みたいに僕の足首に絡みつく。 「愛してるのね」 「うん、好きだってば、愛してるってば……! だから行っちゃ嫌だ!」 姉さんは、これ以上ないほどの笑顔で、こう言った。 「貴方が私を好きなのと同じくらい、私は貴方が大嫌いなの」 蔓が解ける。僕はそれでも走った。走ったけれど、僕の指先は姉さんに届かなかった。 「貴方の親を殺した貴方の大好きな私を、殺しにおいでよ」 次の瞬間、姉さんは僕の目の前で、白い光と花びらに包まれて消えてしまった。 約束よ。 残されたのは白いバラの花びらと僕、 僕には子守唄がずっと流れているような気がしていた。 ◇ 何やってるんだろう、僕。 学校とさゆりの家の間、小さな公園の隅のブランコに僕は腰かけた。 何もないって、わかってるのに。 傷ついた鳩を拾ったのはこの公園だけど、あの時白いバラの花びらなんて散らばっていたかわからない。僕が気付かないはずはないから、花びらなんてなかったのだろうか。だとしたら誰が。 「貴女が会いに来てくれたらいいじゃないか」 シャノンが僕のところへ来て、地面に頭をついて謝りでもしてくれれば。 ううん、それでも僕は彼女を赦さないだろう。 すべての元凶は貴女だ。 見上げると、空は分厚い雲に覆われて、今にも泣き出しそうだった。 どうしてシャノンが僕の両親を殺したのか、僕に何をさせたいのか、家出した後どこで何をしていたのか。僕の頭で渦巻く疑問の答えは彼女しか知らない。けれどもう知りたいとも思えなかった。長引かせたくない。すぐにでも貴女を殺して、それで終わりにしてしまいたい。 雨、降らないかな。 湖を眺めながら、雨に打たれるのは嫌いじゃなかった。雨が止んだ後の日差しが暖かく感じられて、好きだったから。 ブランコの鎖は冷たい。 珍しくナイジェルは追ってこない。 「つまんないなあ」 独りで呟いた。僕らしくない。 僕は人形みたいに、意味もなく生きているのがお似合いだ。あるいは―― 「……死にたいなあ」 ああ、きっともう笑えない。 僕に残されているのは、復讐とその贖罪だけだ。 ◇ シャルル以上に世話の焼けるやつなんていないと思う。 少なくとも、オレはあれほど手間のかかる友人に今まで遭遇したことがない。 当然と言えば当然だ。友人と呼べる友人なんて、オレにはシャルルくらいだし。 たまには放っておいてやろうと思ったが、シャルルのいない教室なんかに黙っていることなんてできなかった。何のためにオレはここにいるんだ。休み時間の終わり際、小雨が降り始めたのを見てオレは探しに行くことに決めた。さゆりに家の鍵を借りて、学校を出る。 雨に濡れるのも気にせず歩きながら、そう言えばオレは傘なんて差したことなかったかもしれないな、と思った。ルドベキアの雨はそんなに冷たくなかったし、雨宿りさせてくださいと適当な家に上がり込むこともできたし。 シャルルは案外簡単に見つかった。ずぶ濡れで俯いて、公園のブランコに腰掛けている金髪の少女――男なのはわかってるけど――が、目立たないわけがない。水溜まりを避けずに真っ直ぐ歩いていくと、シャルルは薄目を開けてオレの足元を見たが、何も言わずにまた目を閉じた。 「シャルル」 シャルルは小さく溜め息をついて返事代わりにした。 「……ごめん、すぐに追いかけるべきだった」 「いちいちついてくるな鬱陶しい」 オレはシャルルの隣のブランコに腰掛けた。水滴がついて邪魔な眼鏡を外す。 「独りでいたいんだったら、オレなんかいないと思えばいいよ」 自分の気配を周りに気付かれないくらい希薄にするのは、得意中の得意だ。昔はしょっちゅう、そうしていたから。 雨の音と、遠くで車が走る音だけが聞こえる。 数分間俯きっぱなしだったシャルルは、突然怖くなったみたいにオレのほうを見て、すぐにオレが微笑むのに苛立ったのか舌打ちした。 「……お前の笑顔気持ち悪い。笑うな」 「シャルルが笑わないからその分まで笑ってあげてるんだよ。そんなに暗い顔してたらせっかく綺麗な顔がその表情で固まっちゃうぜ」 シャルルはよくオレの言葉を無視するし、急に怒るし、よくわからない。 だからこそ構ってやりたいなんて思うオレは、どこか変かな。きっと変なんだろうな。 「なあシャルル、オレはさあ、例えば女の子が、殺人鬼になってしまった恋人のことを愛せずにはいられない、みたいなのは別に悪くないと思うんだ」 オレは立ち上がって、シャルルの真正面に立つ。 「オレも、もしシャルルが殺人犯になったとしても、ならなかったとしても、嫌いにはならないよ。オレはそう簡単に心変わりしないよ」 シャルルはオレを上目遣いに睨んだ。オレは笑顔で両手を広げる。 「だけど、ちょっとでも殺したくないって思ってるなら、思いとどまってよ。後悔してほしくないんだ。お前のことはみんなわかってるから言うんだ……」 シャルルはおもむろにポケットからナイフを取り出して鞘を抜いた。それからゆっくり、振り上げて、そこで止める。 「それ以上ふざけたことを言うなら投げるぞ」 オレはやっぱり、笑って見せた。 「いいよ。そうだ、オレお前の兄貴になってあげる。こんなに可愛い義弟を大事にしないお前の姉貴より、ずっとお前のこと愛してあげるよ」 普通ならまさかと思うところだが、シャルルだから意外でも何でもない。本当にナイフをオレの胸目がけて投げてきた。十分避けれる距離だったが、オレは右の手のひらで受け止める。 ナイフの刃は音も立てずにオレの右手を貫通して、柄がつっかえて止まった。 自分の身体に実体があるのか疑わしく思ったのも束の間、遅れてやってくる激痛。 「――っ、てぇー……! ひー」 舐めていた。このナイフは思っている以上に切れ味が良すぎる。 「この間左手もこれでざっくりやったばっかりだってのに!」 シャルルのほうは「まさか」という表情をしていた。オレが避けると思っていたらしい。そんな甘い考えで刃物を投げてもらっては困る。オレはナイフを引き抜いて血を払った。手から滴る血が、水溜まりに落ちてじわじわと広がっていく。雨が流してくれるから大丈夫だろう。 「…………」 「シャルルお前さ……、オレに脅しとかナイフとか効かないのわかってるだろ。無駄な体力使うのやめようぜ。オレだって痛いものは痛いんだよ。あ、もしかしてストレス解消になってる? だったらいいやいくらでも刺してくれ。オレ以外は駄目だぞ」 シャルルは下を向いたまま立ち上がった。歯を食いしばっているらしいのが前髪の間から見えた。オレの手からナイフを奪うと、少し歩いてからオレのほうを振り返る。 「シャノン・レグナシェスを悪く言っていいのは僕だけだ」 「…………。それは悪かった」 「あとお前気持ち悪いから死ね」 「死ねってお前……反応に困るからそういうのはやめろよな」 オレが何者なのか知っている、こいつなりの冗談なのは、わかってるけど。 「……風邪ひかないうちに帰ろうぜ。さゆりちゃんに鍵借りてきたんだ。学校はもういいさ。その代わり明日学校行ったら未来ちゃんに謝っておきなよ。まずいこと言っちゃったんじゃないかって心配してたぞ」 「知るか。金髪ってだけで僕を疑おうだなんて馬鹿だなあの人」 「未来ちゃんの悪口を言うのはよせ。悪いのはその金髪女性、だろ」 ああ、あの女がみんな悪い。そう言ってシャルルは先に歩いて行ってしまう。 ……シャルルの意志を曲げることなんて、無理なんだな。 それでもオレはギリギリまで、説得し続けよう。後悔させたくない、なんてのは言い訳で、自分が後悔したくないからなのかも知れない。人殺しを肯定する自分を認めるわけにはいかないから。 この国の雨はちょっと冷たい。後ろをついていきながら、暖かくて甘い物でも買って食べさせてあげようと思った。何なら食べてくれるかな。どうしたら幸せそうな顔してくれるかな。 シャルルが、自分の義姉を恋人同然に想っているのは知ってるんだ。 食べて寝て、泣いて笑って、姉ちゃんのことなんか、忘れてくれたらいいのに。 |