4章.2


 シャルルがシャワーを浴びている隙に、と思って、オレは朝食を作り終えたばかりのおばさんに挨拶しに行った。オレのこともしばらくこの家に置いてくれることは、さゆりが先に話しておいてくれたので、まず簡単に自己紹介して、お孫さんには手を出しませんと誓った。少し笑われた。
「口では何とでも言えるべ」
「はい。この男怪しいと思ったらすぐに追い出して頂いて構いません。構いませんが、シャルルの面倒だけはもうちょっとだけ、お願いします。シャルルの問題が片付いたら、オレたちは出来る限り早くお暇しますから」
 おばさんはオレを見定めるような目で見ていた。さゆりのおばあさんであるのは確かなのに見た目は随分と若く気丈そうで、けれど全てを悟った老人のような澄んだ瞳をしている。
「それと、これ……足りるかわからないんですが」
 オレは少し厚くなった封筒を差し出した。訝しげに手に取り、中身を確認したおばさんは眉をひそめ、突き返そうとしたがオレは譲らなかった。
「今までシャルルがご迷惑おかけした分です。一割は自分のために取っておきましたし、受け取ってください、お願いします」
 本当は三割だ。この国で平凡な人間らしく働いたら、どの程度稼げるのかは理解したつもりだ。平凡な人間らしいことなんて今までほとんどしてこなかったが、社会適応力は、それなりにある、はず。
「お前、どこでこったに稼いだ。高校生が稼げる量じゃねぞ」
 ……どうやらやっぱりオレの感覚はずれているらしい。
「……オレ、普通の高校生じゃないですから。朝晩寝ないで働けば、そのくらいには」
 おばさんは有無を言わせない勢いで、オレの手に封筒を再び握らせた。
「自分で稼げるんだばアパートでも借りて自分で暮らすんだな。誠実なのは認めてやるが金はいらね。自分で使いなさい」
 オレは言い返そうとしたけれど、駄目だった。その目の迫力に負けた。仕方なく、「はい」と答える。
「そったに稼いだら腹減ってらべ。朝ごはんにするから座って待ってろ」
 ちょうどシャルルが脱衣所から出てきて、オレを見て一瞬だけ不思議そうな顔をした。
「ナイジェル、あの鳩どこにやったの?」
「え? ああ、とりあえずベランダに置いてあるんだけど……」
「僕が埋めるから」
 それだけ言ってオレから目を逸らすと、シャルルは食卓のイスに腰掛けた。
 反省、しているんだろうか。また何か思い出してパニックにならないように、気をつけてやらないとな。
 シャルルの隣に座って、手の中の封筒を見つめる。どう恩返しをしたらいいんだろう、と思った。
「あとあれだ、坊主」
 振り返ると、おばさんはこちらを向かずに言った。
「無理はすんなよ」
 思考が一瞬止まった。無意識にシャルルのほうを向くと、シャルルはオレの手元を見て、ちょっとだけ俯く。
 ……無理、なんて、したことあったかな。
 なんだか変に笑えてきてしまった。オレの表情を何と勘違いしたのか、少し経ってから下りてきたさゆりは困ったような顔をしたけれど、特に何も言ってこなかった。
 時々自分は馬鹿だと思うことがある。
 この時もそうだった。無理するなと、ただそう言われただけで喉の奥が少し熱かった。
 ああ、これが親なのかなあ、って思っただけなのに、だ。

     ◇

「君って、男の子だよね?」
 その女装の少年は、まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「正解?」
 余程のショックだったのだろう、その子はしばらく固まっていた。
 視線があちこち泳ぎ、どう答えるか迷っているらしいのを、オレは微笑みながら待つ。
「まさか……」
 オレの鳩尾あたりを見つめたまま、その子は小さな声で呟いた。
「……えっと、そう、です。僕は女の子じゃないです」
 怖がっているみたいに消え入りそうな声も、少女のように軽やかで透き通っている。
「あ、騙そうと思ってたんだったらごめんね。何か都合が悪かったら女の子だと思っててあげるけど」
「そんなつもりじゃ、ないです……けど……」
 まだ混乱しているのか、なかなか次の言葉が出てこないらしい。オレは水面を眺めながら、どうしてわかったのか、って? と訊いてみた。
「はい……僕、今まで一度も初対面で男だって言われたことないんです」
 確かにそうだろう。この子の容姿だけを見て男だなんて思う人はいまい。声や仕草でさえ少女そのもの、男なら誰もが一目惚れしても不思議ではないほどなのだから。
「どうしてだろうね。直感としか言いようがないかな……」
 本当の名前が知りたくなってその子のほうに目を戻すと、上目遣いの大きな目と目が合った。ちょっと恥ずかしそうに、「貴方のお名前は?」と訊くのだ。
「……ナイジェル・セゼイル。ルドベキア出身だよ。ちょうどオレもキミの名前訊きたかったんだけど。訊いていい?」
 また視線を泳がせながら、その子は囁くように答えた。
「シャルル・レグナシェス・ルドベキアです」
「レグナシェス? えっ、ってことは」
 シャルルはこくんと頷く。
「王妃、です……」
 この国の人間の苗字には、この国の古い言葉が使われている。“レグナシェス・ルドベキア”は、今の言葉に直せば“ルドベキア王妃”。遥か昔の職業を表していると言うから、つまりこの少年は王族の血を引いているのだ。
「君そのものって感じの名前……。道理で綺麗な服着てると思った。女装は趣味なの?」
 からかうつもりはなかったのに、シャルルは頬を真っ赤にして猛抗議してきた。
「違います! 元王族だからって何もないんです! それに女装なんか趣味じゃない! どうせ女の子にしか見えないんだからって、姉さんのお下がり着せられるの! 男の子の服似合わないからって。僕の服にお金かける余裕なんかないんだよ……! 親は僕がどう思われようがどうだっていいんだ、バイオリンとかピアノとか、とりあえず楽器でもやらせておけば手間かからなくて楽だとか思ってるんだ……」
「結構喋るんだね君。大人しいのかと思ったら」
 思ったことをそのまま言うと、シャルルははたと口を噤んだ。
「喋っていいよ。あんまり人と話す機会がないんだろ。暇だったら話し相手になって。オレ暇だから。退屈すぎて死にそうでさ」
 オレはその場に腰を下ろした。シャルルは一拍置いて、そっと屈み膝を抱えて座る。
「……ナイジェルさんはどうしてこの街にいらしたんですか?」
「オレ? うーん。目的はないよ。三年くらい前に親戚が全滅したから放浪してるんだ。食料には別に困らないんだけど、寝床探すのが大変でね。今日もどうしようか考え中。大抵は一人暮らしの女の人口説いて泊めてもらったりするんだけど、この辺りにいる? そういう人。知ってたら紹介して」
「あの、貴方何歳なんですか」
「もうすぐ十五歳になるとこ」
 シャルルは絶句した。オレがにっこりしながら見ていると、シャルルは見つめられっぱなしなことに気付いて慌てて目を逸らす。
「ところでシャルルのお姉さんって美人? 君がそんなに綺麗なんだから当然美人かな」
「どうして僕に姉さんがいるって」
「さっき自分で言ってたろ。その服、お下がりだって」
 指摘した途端、シャルルの表情が翳る。
「姉さんは、綺麗ですよ。僕より。血は、繋がってないんだけど」
 膝をさらに抱え込んで俯き加減になるのを、オレは静かに眺めていた。
「…………。ね、君さ、最初から思ってたんだけど、何か悩んでるよね」
 シャルルは頷かなかったが、否定もしなかった。
「お姉さんと何かあった? 嫌じゃなかったら話すといいよ」
 それからしばらく沈黙が続いた。オレは黙って水平線を見ていた。日差しも風もやわらかく優しくて、けれど隣に座っている天使の男の子はそんな小さな幸せを感じている余裕なんてないみたいで、その子の内側だけが――オレの存在を除けばだが――この風景にそぐわなかった。オレはほんの少し親近感を覚えたのかもしれない。同世代の男の子と会話するのなんて、いったい何カ月ぶりのことだったろうか。
「いなくなったの、姉さん。何週間か前に。きっと、家出」
 やっと口を開いたとき、シャルルの声は随分と落ち着いたアルトだった。
「家出? 突然?」
「突然ってわけでもないけど。……よく、わかんない。どうせなら僕も一緒に連れて行ってくれればよかったのになあ……」
 金色の長い睫毛は膝を向いている。
「そっか。お姉さんと仲良かったみたいだね」
「姉さんは優しいもの」
 うっすら微笑んで、シャルルはオレのほうを向いた。
 口調が女の子っぽいのも、そのお姉さんの影響なのだろう。察するに、この子はちゃんと学校に通っていない。オレやこの子くらいの歳なら、余程の貧乏でない限りこの時間は学校にいるのが当たり前なのだから。
「寂しい?」
「うん……でも姉さんに心配かけないようにしなくちゃ駄目なの」
 シャルルはすっくと立ち上がった。
「ナイジェルさんはこれからどうするんですか?」
 オレも立ち上がって、肩をすくめて見せる。
「君がどこか行っちゃうんなら、一人で寝床探しだよ。寂しいな」
「そうですか。がんばってください」
「えーひどいな。泊めてくれそうな人紹介したりしてくれないのかよー……」
 シャルルは、冗談だよ、と、慣れていないかのような笑みを浮かべた。
「まだ暇なら、僕のアマリア、聴いていきませんか」
「誰? なに?」
「バイオリン。貴方になら聴かせて差し上げてもいいです」
 その時は別に、バイオリンなんてどうでもよかったのだ。ただ暇だったから、行く当てもないから、シャルルの小さな背中についていっただけだった。きっとその日一日だけ、話すだけ話して、次の日にはまた違う街で彷徨っているんだろうと思っていた。
 ところがこの天使、只者ではなかったのだ。天使ではなくて妖精だったらしい。オレはうっかり妖精の誘いに乗って道に迷って、変な魔法をかけられてしまったらしい。
 ともかく、何十年と続くのだろうと信じて疑わなかったオレの放浪生活は、この日であっさり終わってしまった。たった数年で。シャルルのほんの、一言で。

     ◇

 僕は自分で思っているよりずっと、周りから見れば弱い人間に見えるらしい。
 ナイジェルは学校まで当たり前のように僕についてきて、どこかから机を持ってきて当たり前のように僕の隣に座り、当たり前のようにクラスの一員と化していた。授業中でも何でも関係なく僕に対して一方的に話しているかと思えば、時々何か呟きながら考え事をしていたり、やっぱり僕に向かって喋っていたりで、実に、鬱陶しかった。
 さゆりは自分の席から何度か僕のほうを振り返って心配そうに見ていた。未来はなぜかナイジェルと意気投合していて、休み時間には二人で僕の容姿をひたすら褒め称えていたので無視した。恵吾は「なんかいつもより元気なさそうだけど大丈夫? 何かあったらちゃんと周りの人に言いなよ。俺でもいいし」なんて僕に言った後、「ナイジェルはもう少し静かにしろ」とか説教していた。どいつもこいつもお節介だった。僕のことなんて何も知らないくせに。余計なお世話だ。面倒くさい。イライラする。どうでもいい。気持ち悪い。
 もう、みんなどうにでもなればいい。
 僕はシャノン・レグナシェスさえ殺せればもう何だっていいんだ。

 何の手がかりも見つからないまま、また数日が過ぎてからのことだった。
「ところで最近さー、この辺りでも小動物虐待してる人がいるってニュース、見た?」
 毎日昼休みになるとナイジェルの前の席を陣取って、ナイジェルにいろいろ教えているらしい未来が、突然そんなことを言い出した。僕は隣で黙って聞いていた。
「見てない。気になる。どういうニュース?」
 ナイジェルが答えながら、横目でちらと僕の顔色を窺ったのが腹立たしい。
「昨日テレビでちょっとだけやってた。夕霞市内でカラスとか猫とかを瀕死状態になるまで痛めつけてる人がいるみたいで、精神に異常をきたした犯罪者予備軍かも知れないので気をつけてくださいって。気になったからちょっとネットで調べてみたんだけど――」
 未来まで僕を盗み見るようにした。不愉快すぎて、舌打ちしそうになったけれど、耐えた。
「目撃者が何人かいるのね。『こちらに気付くと消えるようにいなくなった』とか『真っ白い服を着ていて幽霊みたいだった』とか、なんか証言は怪しいんだけど、どの人も『犯人は金髪の女性』って言ってて」
「それは怖いね。…………。シャルル大丈夫? 大丈夫じゃなさそう。保健室行こうか?」
 僕はゆっくり首を振って、声なんて出したくないのに無理やり横から訊ねる。
「金髪で、それで?」
「しゃ、シャルルくん顔色が――」
「いいから続き話してくださいよ」
 未来は怖気づいたような表情で答えた。
「……虐待された動物の周りには白いバラの花びらが散らばってるんだって」
 白い、バラ、ね。
「シャルル、元々美白なのはわかってるんだけどほんと顔真っ白だ。横になったほうが……」
「いい。何ともない」
「何ともなくないだろ。保健室が嫌なら早退して――」
「うるさい黙れ!」
 僕は立ち上がって、ナイジェルも未来も、周りの目も、すべて無視して教室を飛び出した。
「シャルルくん!」
「どこ行く気だ待て!」
 どこへ行こうというわけでもない。
 ただ、いてもたってもいられなかっただけだ。
 白いバラの、ルドベキアでの花言葉は――会いに来て。