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4章.1 ――――朝目覚めた時は、この日が僕の人生を百八十度変えてしまう一日だなんて、思ってもみなかった。日常との微かな違いにすら、初めは気付かなかった。 だって僕の十五歳の誕生日だったのだから。 悪いことが起こるはずなかった。 ベッドから這い出して、気分じゃない明るい色のブラウスを着て、寝癖のついた髪の毛を鏡の前で梳く。疲弊しきったような顔。鏡に向かって笑ってみせるけれど、笑えていない。何とかしないと。 さあ、今日はパンに何を塗って食べようか――そんなことを思った時、違和感に気付いて僕は櫛を置いた。 物音が――しない。 母さんが朝ごはんを作る音も、父さんがシャワーを浴びる音も、鳥のさえずりさえも、しない。カーテンを開けても、見えるのは雲ひとつない澄みきった青空と、昇ったばかりの太陽だけ。不意に寒気を感じて、僕は上にパーカを羽織った。 世界が自分一人を残して滅びてしまったかのような、気味の悪い錯覚に囚われる。 怖くなって僕は部屋のドアノブに手をかけた。と、そのとき、内側に引っ掛かっていた冷たい何かが足元にするりと落ちる。 ネックレス……? 拾い上げて見たそれは、僕の知っている人のもので、 まさかと思ったけれどそれは、 「……姉さん――――っ?」 彼女のもので、間違いなかった。 僕はそれを掴んだままドアを押し開けて衝動的に駆け出す。 そのとき僕の脳裏にあったのは、嬉しさでも懐かしさでもなく、ただ恐怖だった。 両親の寝室は果てしなく遠くて、壁が行く手を阻む。 泣き出しそうになりながら、壁に何度もぶつかりながら、走って、走って、ノックもせずに、寝室のドアに体当たりするようにして開ける―― 真紅の花びらが舞った。 見開いた僕の目に映ったのは紅、 部屋中に溢れかえった赤い花びら、赤い羽根、 僅かに覗く床に見えるは、光沢のある赤黒い液体。 血の海に埋もれているのは、変わり果てた、僕の両親だ。 「――――――」 声が出ない。見なければいいのに、僕の目は勝手に、部屋の状態を把握しようとする。 父さんは床にうつ伏せに倒れている。手足を拘束するように絡まったイバラの蔓。抵抗したのだろう、寝間着の腕の部分が細かく裂けている。背には大きな切れ込みが二つ。まるでそこから翼でも生えていたかのように。その翼をもぎ取ったかのように。 母さんはベッドの上、壁に寄りかかるように。首を斜めに切られている。目は見開いたままで、恐怖に凍りついて固まっている。口から流れている血は既に止まってはいるものの、まだ乾いてはいない。 壁やカーテンにまで飛び散った血が、事の激しさを物語っていた。 「……嘘だ……」 血の臭いにバラの香りの混じった噎せ返るような空気に、僕は口を押さえて、喉まで出かかった胃の中身を飲み込んだ。 「……なに、これ」 姉さんがやったの? 昨日まで普通に暮らしていたはずの、両親が死んだ。わかっているのに、涙も出ない。 どうして、よりによって、僕の誕生日に。 僕はただ立っていた。目の前はもう見えなかった。震える身体をどうすることもできず、呆然と立ち尽くすだけだった。 ◇ 僕が全身汗びっしょりで目を覚ましたのは夜更けだった。どうして気を失ったのか思い出すのに十数秒、僕は上体を起こす。 心臓が針金で引き絞られるようにきりきりと痛んだ。辺りを見回すと、すぐ横の棚の上に水の入ったコップが月明かりに照らされていて、横に小さな紙が置いてある。ルドベキア古語の整った文字で「喉が渇いたらどうぞ」とだけ書いてあった。口の中がすっかり渇いていることに気付いて、僕はその水を一気に飲み干した。微かに、甘い。 静かにコップを置き、人の気配を感じて振り返る。部屋の入り口の側のイスに腰掛けたまま安らかな寝息を立てていたのはナイジェルだった。さゆりもよく許可したものだなあと思う。ふと自分の左腕に目を遣ると、傷はすっかり包帯で覆われていた。結び目は見るからに固そうで、僕一人では取れないようにしてある。 鳩はどこに片づけられてしまったんだろう。僕がきちんと埋葬してあげたかったのに。あれは誰かに傷つけられて死んでしまいそうだったのを、助けてあげようと思って連れてきたのだけれど、結局助かりそうになかったから楽にしてあげた。やめておけばよかったと思う。あいつがいれば助けてあげられたかな、なんて考えたから、その上血なんか見たから、あんなことになった。どうにも記憶が途切れ途切れなのだけれど。 ……何かを傷つけたい衝動は全部オレに向けてと、ナイジェルは言った。ずるかった。僕がお前を刺したりなんてできないことを、お前は知らない。僕の殺意はどうしたって、ナイジェルには向かない。お前は何の関係もない。 抱きしめられた感覚を思い出して、僕は唇を噛んだ。 寝てはまた嫌な夢を見るだろうから、自分の手を黙って見つめる。いや、そうしようとしたけれど、できない。 天国そっくりのあの地獄が、頭から離れない。 真っ赤などろどろした液体に溢れて、僕の心は今にも決壊してしまいそうで、それを憎しみが反対側から支えている。 「――――ッ」 僕は胸を手で押さえつけた。痛い。 目を閉じただけで、姉さんの微笑が瞼の裏に蘇って、消し去ることができない。 僕の頭を撫でる姉さんの手の温かさも、優しい声も、唇の感触まで、僕は覚えている。 息ができない。視界が溢れそうになる涙で霞む。奥歯を噛みしめて、爪が食い込むほど拳をきつく握りしめて、それでも溢れそうなこの液体に腹が立つ。 泣くな、泣いたって慰めてくれる人なんて――ううん、 僕だけを想って、隣にいてくれる人なんて、もういないんだから。 泣いちゃだめだ、だめだ、泣いたところで何になるって言うんだ、だめだ、駄目だ―― ぽたっ、と、小さな雫が布団の色を変えた。 抑え切れなかった。閉じた目の隙間から、ぽた、ぽたっ、と、落ちる透明な雫。静かに頬を伝い顎まで流れ、落ちては布団に染み込んで消える。 漏れそうになる嗚咽を噛み殺して、喘ぎながら、僕は手で自分の顔を覆う。 やだ、いやだ、嫌だ、嫌だ、嫌だ! 憎い、憎い! 憎くて仕方がないんだ、殺してやりたいくらいに! ――――だけど、僕は、貴女を殺したくなんかないんだ。 本当は、ほんとは、殺したくない。 なのに誰かを憎まないと、壊れるのは僕自身だ。僕は自分の身なんかより、貴女のほうがずっと、ずっと、大切なのに、独りが怖くて自身に立ち向かうこともできない。 僕は弱虫だ、馬鹿だ、エゴだ、最低だ。 なんて、情けないんだろう。 ねえ、どうして貴女は変わってしまったの? 何のために、僕をこんなに苦しませるの? 手を力なく下ろして、上を向いた。 ああ、貴女のピアノが聴きたい。 貴女の温もりが欲しい。 殺し、たくなんか、ない……! 僕が憎いのは貴女自身を変えてしまった貴女。 僕の唯一の幸せを奪い去った貴女。 涙が冷たくなって耳まで濡らす。 答えてよ、ねえ、姉さん。 昔の姉さんは何処にいるの? どうして僕が泣いてるのに、来てくれないの? 僕を抱きしめに来てよ、抱きしめて、大丈夫って囁いてよ――! カーテンの隙間から覗く月まで、僕を冷淡に見下ろしている。 涙が止まらない。 止め処なく、溢れて零れて、でも僕の穢れとか、忘れたい思い出とか、抱いちゃいけない想いとか、流し落としてくれたりはしない。 ……姉さん。貴女のことは、僕の手で地獄へ送りますね。 もう、昔の貴女はいないから。 僕の心を掻き乱すだけの貴女は、僕の姉さんなんかじゃない。 許してください。 ほんとはそんなことしたくないけど、 だって、ほら、 僕が甘えん坊なの知ってるでしょ? 僕は優しかったころの貴女との思い出に溺れたいだけなんだよ。 ◇ 翌朝、制服に着替えて自分の部屋から出ると、廊下にナイジェルが体育座りしていた。シャルルの部屋に向かって口を尖らせていたのだが、私に気付くと笑顔で挨拶してくる。 「おはようさゆりちゃん! いい天気だね!」 「うん、おはよう……」 シャルルは大丈夫なの? と訊く前に、ナイジェルは小声で言った。 「オレうっかり寝ちゃってさ。さっきシャルルに枕で文字通り叩き起こされて叩き出されちゃった。とりあえずは元気みたいだ」 「ナイジェルはどうするの?」 訊いてから、ナイジェルが高校の制服を着ていることに気付いた。どこで調達したのやら。 「オレはシャルルの行くところへ行くよ。シャルルが学校に行くならついていく。よく考えたら、シャルルにしてみれば学校に通うだけでも相当無理してるはずなのにさ、気付かなかったオレ馬鹿すぎる……。さゆりちゃんは何も気にせず普通にしてて大丈夫だよ」 「あの、シャルルのこと、もしかして学校に通わせないほうがよかった……?」 私が少し俯いたからだろうか、ナイジェルは少し前屈みになって笑った。 「そんなことないよ。おかげでシャルルのこと探し出せたんだ。シャルルにとっては辛かったかも知れないけど、オレがいるからもう大丈夫だし。……シャルルはさ、ルドベキアでちゃんと学校通ってなかったから――」 突然シャルルの部屋のドアが乱暴に開いた。大きく開きすぎて、金具がぎぃっと音を立てる。 「朝から何喋ってんの。さゆりもよくこんなやつのこと家に上げたよね」 部屋から出てきたシャルルは、かなり苛々しているようだった。後ろ手でドアを閉めてナイジェルのことをちらっと睨み、「シャワー貸ります」と吐き捨てるように言うと、スタスタと階段を下りて行ってしまう。 「シャルルがごめん。でも怒っても可愛いだろ?」 ナイジェルはのろけるみたいに言ったけれど、私は首を傾げた。それでも何故だか嬉しそうな顔で、「オレに対しては常に怒ってるけどね」と付け加える。 この人にとって、シャルルは一体何なんだろう。どうしてシャルルと。話していると、そればかりが頭に浮かんだ。 「……前髪伸ばしてたのは目元を見られたくないからだったんだな。今気付いた」 階段のほうを向いたまま、ナイジェルは呟いた。それから思い出したように、おばさんに挨拶してくる、と階段を下りていく。 見間違いではないようだった。シャルルの目が、泣きすぎたように赤くなっていたのは。 |