3章.3


 まさか一週間もたないとは思っていなかった。
 オレはさゆりから電話を受けてすぐ、全速力で安藤さゆりの家へ向かった。電話越しのさゆりの声は震えていたし、相当気が動転しているらしく、状況を説明するのは無理そうだったので早めに電話を切った。通話したままのほうが彼女を安心させられただろうが、走って行ったほうが早い。まずはシャルルを何とかしなくては。
 彼女の家は敷地が比較的広く、木々が多いのでわかりやすい。一度前に前を通りかかって確認しておいてよかった。さゆりは玄関を出てすぐの所で、携帯を握りしめて屈みこんでいた。オレが声をかけると、涙で濡れた顔を上げて立ち上がり、しゃくり上げながら言う。
「……シャルルがっ、シャルルが大変なの……! ばあちゃんもいなくて、私っ、何にもできなくて……っ!」
「さゆりちゃんは悪くない。巻き込んでごめん」
 オレは彼女を一瞬だけ抱きしめ、家の中に入った。靴を脱ぎながら動悸が激しいのを感じる。焦るな。
「どこ?」
「……階段上がってすぐの部屋……、血が、ひどい……」
「わかった。辛かったらさゆりちゃんは上がって来なくていいよ。大丈夫、オレが何とかするから」
 さゆりは頷いて、腰が抜けたようにその場に座り込んだ。
 階段を一段一段上る。駆け上がっては駄目だ。焦っては駄目だ。シャルルが何をしたかはわかってるんだ、どうすればいいかはオレが一番よく知っている。
 否、オレしか知らない。
 部屋の扉は少し開いていた。息を吐き出してから、扉を開いた。

 巨大な紅い花でも咲いているみたいだった。 

 かつてシャルルが目撃したであろう事件現場が、見ていないオレの脳裏をよぎる。

「シャルル」
 呼びかけると、血だまりの真ん中に小さくぺたんと座りこんで、窓のほうを向いていたシャルルの顔がこちらを向く。隈の酷い目は焦点が合っていないようだったけれど、オレのことは認識して、唇だけが笑みの形を作ろうとする。桜色のはずの唇は血の気がなく、噛み切ったのか端から血が出ていた。
「もうやめろって、言っただろ」
 一歩踏み出すごとに、生ぬるい液体が靴下に染み込んでくるのがわかる。
「お前のせいで僕はこんな風になったんだよ」
 ふふ、と笑ったのはやっぱりシャルルの口元だけだった。
 シャルルの目の前に転がっているのは鳩の死骸だろうか。抜けた羽が何枚も、血を吸ってフローリングの床に貼りついていた。制服のシャツをまくった剥き出しの左腕には、十数本のまだ新しい切り傷。濡れたナイフは右手のすぐそばに転がっていて、シャルルか鳩か、両方のそれか、わからない血液の中で蛍光灯の光を反射している。
 オレはシャルルの左腕の傷から溢れる血を止めようと片膝をついた。途端シャルルはナイフを握りしめて、のろのろと自らの白い喉に突きつける。
「何する気だ」
 オレは汗が額を伝うのを感じながら問う。シャルルは諭すような口ぶりで。
「僕はあの女と同じ空気を吸いたくないんだよ」
 それから、空っぽの目をこちらへ向ける。
「お前は僕の味方?」
 オレはすぐには答えなかった。
 否定すれば、シャルルはオレの目の前で自分の喉を裂いてみせるだろうか。脅しだとしても、オレが頷かないだけで、シャルルにとってはどれだけの絶望になることか。
 けれど、オレは簡単に肯定することもできなかった。
 隙をついてシャルルの右手からナイフを乱暴に奪い取り、部屋の隅に放り投げる。ナイフはオレの手のひらに派手な裂傷を作ったが、どうでもよかった。オレの身体の傷なんて、この程度、何の問題にもならない。シャルルの命に比べたら。比べなくても。
 シャルルの身体がゆらりと傾いたのを、オレは抱きしめて支えた。女の子より細くて折れそうな身体はやっぱり、出来すぎた壊れた人形のようで、その軽さが怖かった。体温が、泣きたくなるくらい冷たかった。
「ごめんシャルル。ごめん、オレが悪かった。一人ぼっちにしてごめん……。憎かったら憎んでいい、許せなかったら許してくれなくてもいい……」
 普段なら即座にオレを突き飛ばすはずの、シャルルは何も言わない。
「でも、腕が切りたいんだったらオレの腕を切って。生き物殺したいならオレのこと殺してよ、ねえシャルル、頼むから。お前はこれ以上自分で自分を傷つけちゃ駄目だ……!」
 返事はない。
「オレが何でもするから……っ!」
 答えてくれない。
「そんなに切ったらお前、死んじゃうって……」
 ちょっとの抵抗すら、してくれない。
「ごめん……、ほんとごめん……」
 抱きしめたまま、シャルルの左腕から流れる血を止める。オレの能力では止血で精一杯なほど、深くて大きな、自傷の痕。白い腕にナイフの通った数は、果たして、こちらの世界に来てからの日数と同じだった。毎晩刻んだ切り傷の、かさぶたを今日一気に剥いだのであろうことは予想がついて、抱く腕に力がこもったが、それでもシャルルは動かない。
 しばらく経って、腕の中で掠れた声がした。
「……怪我したら戻ってきてくれると思ったんだよ」
 返事の代わりに、オレはシャルルの背中を擦った。
 シャルルは少し身動きして、小さな声で、俯いたまま、独り言のように。

「……死にたい」

 久しぶりの、シャルルの弱音。
 それは駄目、と、オレも独り言のように上を見ながら囁いた。
「シャルル、泣けよ、泣いたらちょっとは楽になるからさ」
 数ヶ月前から、何度繰り返してきたやり取りだろうか。以前と同じく、シャルルは泣かない。
「泣いてくれたら、オレだって安心できるんだよ……」
「……聞き飽きた。あの女が野垂れ死にでもしない限り僕は泣かない」
 シャルルはオレの胸に爪を立てて、自分の下唇を噛んだ。
「僕が殺してやるんだよ……僕が。この手で」
 殺せないなら僕が死ぬとでも言うように、かさぶただらけの左腕を引っ掻こうとしてみせるシャルルの右手をオレは掴んだ。身動きできないほどに強く抱きしめ直して、深く息を吸って、吐く。
 こいつは本当に、両親を殺した彼女への復讐しか頭にない。
 ただ憎んでいるだけなんじゃない。きっともう、憎まずには生きていけないんだ。
 唯一頼りになるのがオレなんだ。シャルルにはもうオレしかいないんだ。
 オレが首を横に振りでもしたら、本当にシャルルは死んでしまう――
 それは恐らく、必ずしも肉体的な死ではない。
「一つ、約束して」
 助けてくれと言えなくて、涙の代わりにこんなに血を流して。
 なんて、憐れ。
 男みたいに頑固で、女みたいに脆い、どちらにもなりきれないこの子は。
「お前の、何かを傷つけたい衝動は全部オレに向けて。動物殺しちゃ駄目。自傷も駄目」
 オレの胸に立てられた爪が一度さらに強く食い込んで、それから力なくその腕は下された。
「一緒に殺しに行こう。オレだけは、もう何があってもお前のこと一人にしないから」
 女の、心の裏まで見透かすように大きな緑色の瞳がオレを見つめる。
「それがお前の望みなら。寂しい思いはさせない」
「嘘だったら殺す」
「好きにしてくれ」
 安心したのだろうか。シャルルは疲れ切ったような薄い笑みを口元にだけ浮かべると、まるで眠りに落ちるかのように、気を失った。
「辛かったよな……今も、ずっとか」
 まだ何も終わってはいない。シャルルにとっては、まだあの事件は続いている。
 十三歳で成長が止まったみたいな身体を抱え上げて、オレは立ち上がる。
 悔しかった。シャルルを止められない。味方することしか、オレにはできない。

     ◇

 どのくらいの時間が経ったのかはわからない。私はどうすることもできないまま、玄関に座り込んで自分の無力さに腹を立てていた。部屋の扉の向こうで、空っぽの瞳をして鳩にナイフを突き立てるシャルルの姿に驚いて、やめさせることはおろか、声をかけることすらできなくて。シャルルが怖いのと、そんな自分が情けないのとで、わけがわからなくなって泣きながらナイジェルに電話をかけた。彼はびっくりするほど冷静に私の話を聞き、『今すぐ行くよ』と、どこで何をしていたのか知れないが、十分も経たないうちに駆けてきた。ナイジェルがここへ来てくれていなかったらと思うと、やっぱり恐ろしくて仕方がない。
 どうしてシャルルはあんなことをしたんだろう。鳩は近所の公園から? 左腕が傷だらけだったのは、自分で切ったの? 何か辛いことがあるなら話してほしい、何もしてあげられないかも知れないけど――。自分と家族以外のことで、こんなに頭がいっぱいになったのは初めてだった。シャルルの左腕から流れていた血の量を思い出す。あんなに出血したら死んじゃうんじゃないか。そう思ったらまた涙が目の端に滲んだ。
 階段を下りてくる音が聞こえて、私はそちらを見上げた。歯に挟まった何かが取れなくて困っている、みたいな妙な表情で、ナイジェルが下りてくるところだった。両手を隠すように後ろで組んでいる。
「……シャルルは……?」
「気失っちゃったから、部屋にあったベッドにとりあえず寝かせておいたよ。死ぬほどの出血じゃなかったから大丈夫。それより先に手を洗いたいんだけど、どこか借りていい?」
 私は洗面所へ案内して、話を聞こうと思って黙って傍に立っていた。血は平気なのかと問われたので、頷く。諦めたようにナイジェルは私の見ている横で手を洗った。
「部屋は綺麗にしたんだけど、自分の手についた血ってどうにもできなくてね」
「一人で片づけたんですか? だって血があんなに……」
「オレって何でもできるんだぜ? なめんなよ? あとタメ口きいてよ」
 タオルで手を拭きながら、彼は笑ってみせる。そういえば、学校でかけていた眼鏡をかけていない。
「シャルルのことも思い通りにできたらいいんだけどね。あ、そうだ、包帯とかないかな」
 私は薬や湿布の入った引き出しに包帯があるのを見つけてナイジェルへ手渡し、一緒に部屋へ向かった。彼の言うとおり、部屋は何事もなかったかのようにすっかり綺麗になっていた。置かれた大きめのベッドの真ん中に、丁寧に布団をかけられて、シャルルは横になっている。
「気失ってると嫌な顔しないからすごく綺麗だろ。笑えば全世界の男を虜にするだろうにね」
 ナイジェルも? と訊くと、とっくにね、なんちゃって、と笑って返された。
「引っ掻けないようにしておかないとこいつ、引っ掻くからなー……」
 ナイジェルはシャルルの腕に包帯を巻こうと布団をめくりかけて、私に微笑みかけた。見ないほうがいいよ、と言うことだろう。そんなにひどい傷なら病院で診てもらったほうがいいんじゃないかと思ったけれど、それはできそうになかったのでナイジェルを信じるしかない。
 私はカーテンの向こうを覗いた。真っ黒なガラスに、自分の冴えない顔が映るだけだった。
「……シャルルと何か、話した?」
「ああ、うん。シャルルが腕切ったりしたのは、オレのせいらしいよ……」
 自嘲めいた苦笑を洩らして、包帯を巻き終えるとナイジェルは、私の隣まで歩いて来て真剣な表情で言った。
「さゆりちゃん、オレ今晩ここにいていい? また危ないことされては困るし、さ」
 今晩、と聞いて自分がパジャマ姿だったことに気付き猛烈に恥ずかしくなったけれど、私は頷いて、つけ加える。
「ずっと一緒にいてあげて。シャルル、寂しそうだったから。あの、ベッドとかないんだけど、ばあちゃんがいいって言ったら、ここで寝泊まりしてもいいから……」
 返事がないので、俯いていた視線を彼に戻すと、ナイジェルはそれを待っていたみたいににっこりしてありがとう、と言った。
「シャルルがここに着いたのはオレの失敗で、偶然なんだけど、運は良かったんだろうな。あ、オレ今日は寝ないから毛布とか用意しないでね。この部屋から出ないようにするから、さゆりちゃんは安心して普通に過ごしてて。トイレは借りるかも」
 遠回しに、この部屋から出ていくことを促すような言い方だった。私は部屋の扉の前で振り返って、また一つだけ質問する。
「シャルルは何か……抱えてる、の?」
 ベッドに腰掛けたナイジェルは、シャルルの寝顔を見つめたまま答える。
「そうだね……たくさん、傷を負ってるだろうね。一つや二つなんて話じゃない。オレが言えるのはそれだけだよ」
 おやすみなさい、と言うと、彼は人肌恋しくなったら呼んでね、とにやっと笑った。