1章.3


 ばあちゃんが帰ってきたのは三時半を過ぎたころだった。私は玄関の古い戸が嫌な音を立てて開く音で目を覚ました。うっかり眠っていたらしい。すぐにシャルルのことを思い出してすっかり目が覚め、私は階段をダッシュで駆け下り、最後の段で足を滑らせた。
「うわっ!」
 階段で転ぶなんて年寄りか私は。ばあちゃんは買い物袋を持ったまま慌てて駆けて来た。
「何してら? 階段から落づだのっか」
 ばあちゃんはかなりの東北弁だ。時々何を言っているかわからない。
「落ちた……というよりは転んだ。それどころじゃないんだよばあちゃん! すごく可愛い女の子が――違った、男の子がさっきね――」
 私は口早に説明する。シャルルと名乗る男の子が台所に突然現れたこと、行く場所がないようだからここに泊められないかということ、人を捜しているらしいがどうしたら見つかるかということ。その間ばあちゃんは「はぁ」と相槌を打ちながら聞いていた。
「おらはかまわねけど、お前がちゃんと世話すんだよ?」
「世話って……」
 ペットじゃないんだからそんな言い方はひどい。
「とにかく会ってみたほういいよね」
 私はピアノの置いてある部屋に向かった。ゆったりと静かなピアノ曲がかかっていた。ショパンかな。シャルルは壁に半分寄りかかるようにして座っていた。膝を立てて、自分の腕に顔をうずめている。泣いているのかと思ったけれど、私が声をかけたら普通に顔を上げた。
「ばあちゃん帰ってきたよ」
「ああ……はい」
 シャルルは立ち上がって、目を丸くしているばあちゃんに一礼した。
「はじめまして、シャルル・レグナシェス・ルドベキアと言います。突然お邪魔して申し訳ありません。これでも男なのでそれだけは覚えておいて頂けると幸いです」
 ばあちゃんはかなり驚いた様子で答える。ちょっとやそっとのことでは動じない人なので珍しい。
「はじめまして……さゆりの祖母です。行く場所ねぇんだってな……?」
「ええ、困ったことに」
「寝泊まりだったらば、ここさ置いてやってもいいけども」
 シャルルはばあちゃんの訛りを理解するのに十秒ほどかかって、薄く笑みを浮かべたまま
「いいんですか」
 とだけ言った。ばあちゃんが隣で固まっているので、私は
「今なら朝晩二食アンド弁当付きだよ!」
 とか言いながらばあちゃんの背中を軽く殴った。グキッって言った。危ない危ない動けなくなったら大変だ。
 シャルルは優に三十秒ほど黙っていた。
「ありがたくお世話になることにします。迷惑かとは思いますがよろしくお願いします。ありがとうございます……ところで『アンド』って何ですか?」
 ばあちゃんは私の耳にそっと囁いた。
『こいつどこの何人だ?』
『ルドベキアって言ってるけどよくわかんないよ。そんな国ないもん』
『はぁ。でほんとに男だってか』
「むしろこっちが訊きたいよ!」
 思わず大きい声を出してしまった。シャルルが不思議そうに私を見る。
「知らないで使ってるの……?」
「違う違う。アンドは“さらに”とかそういう意味!」
 今更ながら、私は何かとんでもないことに巻き込まれてしまったらしいことに気付いた。

     ◇

 さゆりとおばさんはしばらく相談しているようなので、僕は気になって仕方がないピアノに触れてみることにした。僕の家にあったのはこんなに小さなサイズではなかった。玩具みたいに思えたが、鍵盤をそっと押すと確かにピアノらしい音が鳴った。
 バイオリンほど上手くないとはいえ、僕はピアノも弾ける。ただそれは何の役にも立たない。僕のピアノに意味なんかないのだ。なくなった。ピアノの音色なんて嫌いだ。
 だからここ数カ月、ピアノには一切触っていなかった。否、触らせてもらえなかったのだ。嫌いでも、指が鈍るのは嫌なので、イスに腰掛け適当な曲を演奏してみようとして手が止まった。
 ――――動かない。
「…………?」
 身体が「弾くな」と言っている。どうしてだ。どうしてこんなに指が震えて――
「――――ッ!」
 僕は息を呑んで自分の指から目を逸らした。ピアノに背を向けその場にへたり込んで、一度大きく息を吸ってから自分の指を見た。
 何ともない。
 当然だ、僕は何もしてないんだから――。
 今一瞬、自分の指先が血で濡れていたように見えたのは気のせいだ。ただの幻だ。何ともない。
 言い聞かせるけれど、手の震えは治まらなかった。冷や汗が噴き出して、気持ち悪い。
 頭が痛い……痛い。ズキズキと、古傷が開くように嫌な記憶を吐き出そうとしている。
 嫌だ。思い出すな、思い出さないでくれ。
 駄目だ、痛い、痛い……! 息ができない、苦しい……!
 頭の痛みに意識が薄れていく――――

 それでいい、思い出すくらいなら。
 意識なんかなくなったほうが、ずっと。

     ◇

「それでオレはどうすればいいんだ……」
 脱力したオレは暗い声で訊いてみた。無駄なことはわかっているけれど。
「どうすればって言われてもボクは困るよ。どうすれば脱出できると思う?」
 ルイはオレの隣に座った。その座り方がどう見ても女だった。男はそんなに丁寧に安座しない。
「脱出方法なら考えがあるけどさ」
「ほんと? どうやって?」
 オレは身を乗り出すようにするルイに手を上げて制止する。
「その前にさ」
「何だよ」
「キミ女だろ? どうして嘘ついてるんだ? オレに犯されたくないとか? オレそんな奴じゃないんだけど」
 ルイの表情が一瞬引きつった。が、すぐに笑顔を取り繕う。
「嫌だなーナイジェル。ボクは女じゃないよ。よく女に間違われて困るんだけどね」
「へぇ」
 オレを誰だと思っている。シャルルの性別を見抜いた唯一の人間だ。
 オレはにったり笑った。ルイの手を強引に掴んで、唇が触れそうなほど顔を近づけてこう囁く。
「オレ実は同性愛者なんスよ」
 とんでもない速度で平手打ちされた。慣れてるけど痛いものは痛い!
 ルイは顔を真っ赤にして、しかし明らかに引いている目でオレを見ている。
「嘘なんだけど! 女の子大好きに決まってるじゃないか! ほんとに嘘だって!」
 オレは頬をさすりながら笑った。本当に男ならそんな顔で平手打ちなんてしないだろう。オレならグーで殴る。自信を持って断言はできないけど。男にキスしようと思ったことなんかないから。あーシャルルだけは例外。
「まあ安心しなよ。正直で可愛い女の子にいかがわしいことは何もしないから。女じゃ駄目なのか? 男装の麗人にでも憧れて?」
「ボクはっ、女なんかじゃ――」
 口を押さえながら泣きそうな顔で瞬きを繰り返している。こいつ諦めが悪すぎる。
「ルイちゃん、オレに服脱がされたくなかったら黙って白状しようぜ」
「…………」
「『黙って』なんて言って悪かったよ。黙んないで白状して」
「意味わかんない」
「意味なんかどうでもいいからさ、とりあえず『女でしたごめんなさい』って言えばいいじゃん。認めてくれないと気になって仕方ないんだよ。他の誰かに知られて困るんなら黙ってるからさ」
 ルイは悔しそうに口を尖らせて、やっとのことで正直に言った。
「女だよ……男装してる理由は訊かないでくれ。それから、ボクについてはみんな誰にも喋らないでほしい……」
「もちろんさ」
 オレは爽やかに微笑んでみせた。それにしても男装下手だなこいつ。胸ないのに。
「それで、脱出方法って?」

     ◇

 CDの音がしばらく聞こえていないことにふと気がついて、私とばあちゃんは顔を見合わせた。急に不安になって、私はシャルルの様子を見に行った。
 部屋をそっと覗いてぎょっとする。不安が的中してしまった。
 ピアノのすぐそばに、うずくまる小さなシャルルの姿。片手を床につき、もう片方の手で胸を、爪を立てて押さえている。何十キロも走り終えた直後のように、呼吸が速い――
 過呼吸だ。
「ばあちゃん紙袋! 過呼吸!」
 駆け寄りながら叫んだ。大丈夫、大丈夫だよと繰り返し言いながら、ばあちゃんが持ってきてくれた紙袋でシャルルの鼻と口を覆う。紙袋の肌に触れた部分が濡れるくらい、ひどい汗だった。
「すぐ治まるから、大丈夫、落ち着いて」
 かつて友達や、ばあちゃんにかけられた言葉を、自分にも言い聞かせるように呟く。私も昔、よく過呼吸になった。過換気症候群だった。だから紙袋でいくらか楽になることは知っている。そういう経験があってよかったと、今初めて思った。
 横になって、苦しそうに顔をしかめながら呼吸するシャルルはひどく弱々しくて、やっぱり男の子には見えなかった。私より背は低いし、手も足も細くて折れそうだった。本当は十三歳くらいなのかも知れない。何かすごく、大きなものを背負ってるのかも知れない。
 呼吸は数分してだいぶ治まったようだった。シャルルは自分の呼吸が落ち着いたのを確かめるように、数回深呼吸してからゆっくりと起き上がり、目を伏せたまま私とばあちゃんに軽く頭を下げた。まだ表情は辛そうだった。
「すみません……ご迷惑……かけました」
「まだ具合悪いなら、寝てていいよ。大丈夫だよ」
 シャルルは首を横に振る。それからゆっくりとバイオリンに手を伸ばして、立ち上がりながら溜息と一緒に言った。
「……すみません今の忘れてください」
「え?」
 事態をまったく把握できない私たちを無視して、シャルルは何故かバイオリンを弾き始めた。
 途端、私は身動きできなくなる。突然海底に沈められたみたいな、空気の重さ。バイオリンなのに、なんて重たくて暗い音、さっきシャルルが弾いていたバイオリンではないような錯覚。視界が暗くなって九十度回転する。海の底にどんどん沈んでいく。
「申し訳ありません」
 残酷なくらい美しい声が鼓膜を震わせる。
 意識を失う前に聴いたのは、
 バイオリンがすすり泣くような悲しい響きだった気がする。

     ◇

 何してるんだ僕。
 ナイジェルがあんなに真剣な顔で、ピアノにだけは触るなと言う理由なんて、ちょっと考えたらわかることじゃないか。
 同じことを、繰り返さないために。

 僕は倒れて気を失っているさゆりとおばさんを見下ろして、呆然と突っ立っていた。
 できることなら普通に過ごしたいのに。巻き込んでしまった。気違いだとか、かわいそうな子だとか思われるのは御免だから、なんていう、僕の自分勝手な理由で。

 僕らの世界はこの世界みたいに科学で成り立っているのではない。物事に理由も理論も必要ない世界。ここの人間は、何でも説明しようとするから僕らのような“力”を失ってしまったんだって、誰かが言っていた。
 そう、僕らはこの世界の住人が言うところの“魔法使い”であり、“超能力者”だ。
 頭の痛みを忘れるために、窓のそばまで歩いていって外を眺めてみると、異様な光景だった。少なくとも僕には。建物が妙に縦長で四角くて、屋根は見るからに人工的な色で。緑が少なすぎる。黒い道路には機械が高速で行き交い、汚い煙を吐き出している。
 ルドベキアとは大違いだ。
 向こうのほうがもっと、美しい。
 僕はアマリアをそっと床に置いた。なんとなく、僕を心配してくれているような気がした。乱暴な弾き方をして悪かったと、心の中で呟いて無理に微笑む。
 アマリアなしでは、僕はここの住人と大差ない人間だ。このバイオリンを持って初めて、僕は一般人でなくなる。
 向こうの世界の住人は大抵、個人差こそあれ、一種の魔法のようなものが使える。ただしそれは何かの力を借りなければ使えない――何らかの道具を介さなければならないのだ。僕の場合は楽器全般がその道具で、僕の奏でる音を聴いた人間は完全ではないけれど僕の思い通りになる。今は彼女の数分前の記憶を少し書き換えさせてもらった。嫌がられては、同情されては、困るから。
 何故かナイジェルは、何の道具も使わずに自分の指先と視線だけでいろいろできてしまうんだけれど。
 あいつ今頃どこで何やってるんだろう。
 過呼吸なんかを起こしたのが、彼の前でなくてよかったとぼんやり思った。

 ……疲れた。早く横になりたい。
 どうせ、寝つけやしないけど。