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1章.1 ドアを開けた瞬間、真っ先に僕の目に飛び込んできたのは一枚の紙だった。 「シャルル・レグナシェスくんですね? 先日の事件についてお伺いし――」 僕は無言でドアを閉めて鍵をかけた。警官が戸を叩いて騒ぎ出すが僕は知らない。いきなりそんなものを突きつけるな。僕は知らない、知らないったら、知らない。 「…………はぁ」 準備しておいた荷物と小型の弓を手に、音を立てないように裏口から外に出る。 さすがに警官たちも裏口にまでは気が回らなかったようで人影はない。そっとドアを閉めて、僕は十数年を過ごした我が家を一瞥、駆け出した。 目的地は少し離れたところにある僕の所有地、僕は使うことのない、小さな倉庫だ。 「あっ、容疑者逃げました!」 新人らしい警官の間抜けな声と、続けて追ってくる上官の怒鳴り声。 僕は舌打ちしつつ、走るスピードは緩めない。 捕まるわけにはいかない。 捕まってる場合じゃないんだ。 「その角! 右に曲がった!」 わざと回り道。薄暗く細い路地を駆け抜ける。 「……もうちょっといられると思ってたのに」 僕なんかのために一体何人連れてきたか知らないが、警官は単純だから撒くのは難しくないだろう。僕の体力さえ間に合えば平気。あと一時間なら余裕だ。もちろん、そんなに時間がかからないことはわかっている。 街は深夜よりも静かだ。昼間だというのに、道行く人が全くいない。 怖がっている、のだろうか? 自分がいつ同じ目に遭うか知れないと。 誰も殺しやしないのに。 僕は壁に背を預けて耳を澄ました。 「どこ行った?」 声の主は遠い。 「止まるな、捜せ!」 バタバタと騒がしい足音も聞こえなくなった。警官は足音を立てない訓練をするべきだと思う。僕には都合いいからどうだっていいけど。 早く逃げよう。 この国にもう用はない。 溜息をつき、また走り出そうと振り返って息が止まった。 「動くな」 ――何故気付けなかった。 まっすぐ僕に向けられる小型ナイフの矛先、 緊張で歪んだ顔にうっすらと、勝ち誇ったような笑みを浮かべる若い警官。 「黙って言うとおりにするんだ、お嬢ちゃん」 僕は目を閉じる。……後ろには誰もいない。守ってくれる人はいない。 持っていた弓を手離し、一歩だけ後ろに下がる。 「おい、逃げようとしてももう――」 遅かった。 もちろん警官のほうがだ。 僕は間髪いれずに右足で警官の手を蹴飛ばしナイフを飛ばし、ついでに自分のナイフを胸ポケットから取り出す勢いのままで警官の首に突きつけていた。 「弓しか使えないガキだと思って油断なさっていたようで」 蹴飛ばした拍子に、飛んだナイフで左頬を軽く切ったらしい。 頬を生温かい液体が伝うけれど、笑みを浮かべるのは僕のほう。 二人一組で行動する能もないのか、呆れた。 「邪魔しないでよね。あと僕の名前くらい聞いとけよ、『お嬢ちゃん』だなんて笑っちゃうよ」 素早くナイフを持ち替えて、柄で彼の鳩尾を突く。 倒れこむ警官を尻目に、放った弓を拾って僕はまた駆け出す。 息が切れ始める。 警官は見当たらない。 目的地はすぐそこだ、頼むからそこにいてくれ―― 「――――描いて!」 僕は扉を勢いよく開けると同時に叫んだ。 「……ん……あ、シャルルくんおはよー」 昼寝でもしていたのか、黒髪の少年、ナイジェルが寝ぼけた声を上げて起き上がる。 「逃げる。逮捕状突きつけられたんだ。それだけ言えばわかるだろ」 あくびをしてから、僕の言葉に寝癖を直そうと伸ばした手を止めた。 「…………。わかるか!」 「わかれ!」 わからないみたいに言いながらちゃんとわかっているようで、ナイジェルはチョークを持ってきてだらだらと大きな円を描き、文字を書く。 「急げ」 僕が声をかけた拍子にチョークを折った。余計な線が床に描かれる。 「あっ、くそ……話しかけんな」 ナイジェルは長い袖で床を擦って消す。 「暇なら手伝ってくれよシャルル」 「僕外見張ってんだよ」 僕は弓を片手に持ったまま、窓の外に目を凝らしていた。 「大丈夫だよ。ここ客来たことないよ」 「喋ってる暇あるなら書け」 「書いてるよ! 文句言うな。オレが誰のために――」 「だから早く書け」 「また偉そうに――」 「書け!」 「……すみませんでした陛下」 不満というわけでもなさそうに呟いて、ナイジェルは黙った。 しばらくチョークの擦れる音だけが響いていた。 「…………。描いたよ。間違ってないっしょ。“シャノン”だったよな」 僕の見つめる角の向こうから、青い制服の警官が顔を覗かせる。僕はゆっくりとカーテンを閉めた。 「ちゃんと確認してよ。間違ってたらどうなるかわかんないんでしょ。追手が来てる急げ」 「はいはいうるさいな……は? 追手? やだなー」 落ちついた口調の割に慌てて窓に駆け寄るナイジェル。カーテンの向こうをそっと覗き、一瞬だけ見ると即座に回れ右して魔法円の中に駆け込んだ。 「……こっち逃げた?」 微かに聞こえるひそひそ声。 「うわ……うん大丈夫、逃げよう! 早く早く! オレを信じて!」 ふざけているのか本気でビビっているのか、ナイジェルは掠れた声で僕にしか聞こえないように叫んだ。僕は線を踏まないように魔法円の中に入る。ちょうどその時ドアがノックされた。 「誰かいるか?」 「はい」 僕は極力声を低くして返事をした。小さくじゃなく、低く。 「何返事してんだよ!」 ナイジェルが困ったように言う。僕が肩をすくめて見せると、神妙な顔で僕の左頬の傷を親指で軽くなぞってから、魔法円発動の呪文を早口で唱え始める。 「名乗れ」 「突然いらっしゃった貴方のほうから名乗るべきだと思うのですが。違いますか?」 別に違ってもいいと思うけど僕は言っておく。 ドアの向こうで小さく相談するような声が聞こえ、 「失礼しました。国家警察の者です」 さっきと打って変わって、やけにかしこまって相手は答えた。 「警察が私の家に何の用なんです? 何かまた事件ですか? 物騒な世の中になりましたね」 僕はナイフを眺めながら呟く。これは護身用だ。少なくとも今は。 「……そうですね。先日の事件の容疑者がこちらへ逃げてきたという目撃情報がありまして、かくまっていたりしないか捜査させてほしいのですが、ちょっと開けていただけませんか」 「嫌です」 ナイジェルの呪文はまだ終わらない。なんて長いんだ。 「い、嫌と言われましても」 「だってここに彼がいまして」 「……はぁ……?」 「先ほど逮捕状を突きつけられて逃げた彼ですよ。彼は無実なのですけれど」 肘で頭小突かれた。痛かった。あとで何か仕返そう。ナイジェルは焦ってさらに早口になる。失敗しなきゃいいのだが。 「シャルル・レグナシェスがそこにいるんですか?」 僕は無理に低い声を出すのをやめた。 「ええ――本当のこと言うと、僕がそのレグナシェスなんですけどね」 ナイジェルの声以外聞こえなくなった。そして。 「突入! 本部に連絡!」 ドアが蹴破られる。僕はナイフを警官に向けて、口の端だけを吊り上げた。 「一歩遅かったね。無駄話してなきゃ間に合ったんじゃないの? ところでいきなり突入してきちゃってよかったのかな、後で偉い人に叱られても知らないよ」 ちょうどナイジェルが呪文を唱え終えた。魔法円が微かに光を放ち始める。僕はほっとして、円の一部に目を向けた。 “Shanon” 「……ナイジェル」 「何さこんなときに!」 僕は力なくナイフをポケットへしまう。 「……綴り間違ってる」 「うそ!」 警官が聞いた、僕らの最後の会話はきっとそれだったろう。 「……nが一個足りない……」 そんな名前の人間は恐らくどこにもいない。 発動し始めた魔法円の中で、僕は溜息をついた。 「――馬鹿!」 僕はナイジェルの袖を掴もうと手を伸ばして、きっとナイジェルも同じことを考えて手を伸ばして、けれどどちらも相手に届かなかった。 「すみませんでしたぁっ!」 ナイジェルのアホみたいな叫びが、歪んだ世界の遠くに聞こえた。 ……嗚呼、僕はどうなるんですか。 どうしてこいつは馬鹿なんですか。 僕の故郷は溶けるように渦を巻き、あっという間に、 消えた。 ◇ 私がシャルルに初めて会ったのは、夏休み明けだった。普通の、暑い日の、晴れた午後だった。普通じゃないことと言えば、久しぶりに午前授業だったことくらいで、ほんとにほんとに普通の日だった。散歩日和。 学校から帰って、昼ごはんにカップラーメンでも食べようと、やかんを火にかける。しばらくしてピーピー言い始めたので、台所に走っていってお湯を注いだ。 「あっついなー、あっついなー」 真っ赤だなー、の替え歌みたいな自作の歌を歌いつつ、カップを居間に運んでテーブルに置いたちょうどその時だった。 台所のほうから凄まじい音がした。無理に擬音語にするなら、“バンドドン、ズサッガッガタンだぁっ”って感じ。最後のは誰かの声だったかも知れない。私はびっくりして台所のほうを振り返って(壁しか見えなかった)、ラーメンのできあがる時間をしっかり確認してから台所へ向かった。 何事だ。台所に倒れやすい棚なんてないし、大体地震が来たわけでもないのに、何かが落ちてきたような音。 恐る恐る覗き見た台所の様子は、大体はいつもと変わりなかった。唯一の違いは、ついさっきまで私が立っていた場所に見慣れない誰かがいたことだった。台所にいたらどうなっていたことか。 その子の歳は体格的に十四、五歳だと思う。正座を崩したような格好で床にぺたんと座りこんでいて、片手で額のあたりを押さえていた。ぶつけたのかな。俯いていたから顔はわからなかったけれど、女の子で間違いない。黄昏を溶かしたような金髪が、肩にかかるかかからないかの長さまで伸びている。そばに変な形の大きな鞄が落ちていた。これがさっき“ガタン”って音を立てたんだろう。 「…………」 その子は何も言わずに固まっていた。一度だけ音を立てて息を吸った。 ぶつけた額が余程痛かったみたいだ。実際本当にぶつけたのかはわからないけど。 私はその子が、額を押さえていないほうの手に小型の弓を持っているのに気付いた。弓道部とかそういう問題ではないのだろう。何この子。 途方に暮れていると、その子はやっと顔を上げて私を見た。長い前髪の隙間から、上目遣い気味に私の顔を眺めた。淡い緑色の目。ペリドットの黄緑に似て、宝石を埋め込んだんじゃないかと思うほど、キラキラしている。とっても可愛い顔なのに、綺麗な目なのに、その視線だけはとても鋭かった。 「……貴女は誰ですか」 透き通るアルト。容姿通りの声だった。 「……わ、私が、訊きたいよ」 とても日本人には見えないのに、日本語を話したことに驚きつつ訊ね返す。 「……僕は――」 あれ? ボク? 自分のこと僕って言う子かな。 「――シャルル・レグナシェス・ルドベキアと言います」 肌の色も生クリームみたいに柔らかそうな白だし、名前の語感的にフランス人あたりなのだろうと私は見当をつけた。 「…………」 「……貴女、は?」 「あ、私っ、さゆりだよ。安藤さゆり」 シャルルと名乗る不思議な子は、ようやく額に当てたままだった手をおろした。長い睫毛を何度も上下させ、そばにあった鞄を落ちつかなそうに自分のほうへ引き寄せる。 「……あの、えっと……」 シャルルはセーラー服を着ていた。学校の制服にしては、高級そうな光沢を放つ紫苑色の襟は大きくて、細い肩をほとんど隠している。見るとスカートは穿いていなくて、代わりにやっぱり何だか高そうなズボンを穿いている。靴、履きっぱなしじゃないか。 「……ここはどこです」 ここは台所だけどそんな説明じゃ駄目だよね。この子はどこから来たんだろう。 「……私んち」 この説明も駄目だよね。 「えっと、んと、地球?」 さすがに地球外生命体ではなさそうだった。 「え、あ、太陽系第三惑星地球の、日本っていう島国の、夕霞市、夕霞谷【ゆうかだに】っていう街の、私の家の、一階台所の床の上……」 どう説明してよいかわからないので、やけくそでとことん詳しく言ってみる。 シャルルは理解に苦しんだのか、私の説明の詳しさに感心したのか、じっと床を見つめっぱなしで、視線を動かさずに訊ねてきた。 「この世界にルドベキアという国はありませんね?」 ルドベキア? どこかで聞いたことあるような気はするけど。 「たぶんないと思う」 国の名前ではない気がする。 「えっと……キミの国?」 「ええ」 どういうこと? この世界にその国がないんだから……異世界人、ってことなのだろうか。 それからシャルルは少し黙った。無口な子とは話しにくくて困ってしまう。 シャルルはまた大きな目で私を見上げ、細い眉をほんの少し下げて、訊いた。 「ナイジェル・セゼイルがどこかなんて、知りませんよね」 ◇ 「痛っ」 オレは頭の上に落ちてきた自分の荷物に後頭部を殴られて声を上げた。物に殴られたのは初めてだ。人に殴られることもまずないけど。シャルルだけは事情により除外。 「……シャルル――あれ、いない……」 四つん這いのまま辺りを見回してみても、シャルルの姿は見当たらない。つーか暗くて何にも見えない。 まさか違うところに! オレのせい? 当たり前か。 ちょっと遅れてやってきた罪悪感に苛まれる。 まったく、オレはなんて失敗を。一文字のミスも許されない魔法円なんかを使ったのが悪かったのはわかっている。ああ、わかっているともさ! それでミスったのが悪いんだ! だからってオレをバカ扱いしないで頂きたい。ミスは誰にでもある! シャルルが前もって綴り教えてくれないのが一番悪いんじゃないのか? 確かに何かあれば一緒に逃げる約束はしたぞ。それが今日だなんて聞いてないんだ、まさか昼寝してる時に来るなんて思わなかったんだよ! 独り心の中で文句たれつつ、やっぱり悪いのは寝ぼけてた自分かなぁなんて反省していると、突然後ろから肩に手を置かれた。 「うわっ!」 「あ、ごめん、驚かせちゃったかな」 慌てて後ろを向こうとして尻餅をついたオレを見下ろしていたのは、華奢な体格でオレとさほど変わらない歳の――少年? いや、女? 「誰! なに!」 どっちだかわからない。紺色のパーカって服は誰でも着る。デニムのズボンもだ。 「声が大きいよ。ボクはルイ……キミはどこから来たんだい? もしかしてボクと同じ世界の住人かなあ」 声の高さは女か。帽子を深く被っているので髪の長さがよくわからないが、長くても帽子の中に隠せるだろう。そいつは唇に指を当てて口だけ笑んだ。指が細長い。 「あ、一つ訊きたいことが」 「ボクの質問に答える気はないのかな?」 「その前に。キミの性別はどっち」 女だという確信はあったが敢えて訊ねてみる。そいつはもともと大きい青い目を見開いてオレを上から下まで眺め、オレの思った通りの反応をした。 「ごめんボク男。何か考えてたなら残念でした」 女確定。これで男だったらオレ湖に沈められても怒りません。 「な、な何も考えてないよ、オレ」 「わざと疑われるような反応してるのかい。それともただの馬鹿なのかな?」 どうして一瞬性別わからなかったんだろうと考えたらすぐにわかった。胸ないなこいつ。 「ねえそろそろボクの質問に答えてよ。キミはどこから来た誰?」 「オレはナイジェル――うん、ナイジェルだ。出身はたぶんルドベキア」 「たぶんって何だよ。まあいいや、隣国の人なんだね……。えっと、いろいろあってさ、牢屋に入れられちゃったんだけどさ」 目線を追って、見ればそこには鉄格子。 「…………」 「そういうわけで一緒に抜け出す方法探さないかい?」 「…………」 「抜け出さないことにはキミも何もできないしね。ねえ、うまくいったら何かお礼するからさ」 「…………」 「ちょっと訊いてる? ナイジェル」 オレはがっくり肩を落とした。大声で叫びたいのは我慢する。せめて小声で。 「オレはなんてついてないバカなんだぁぁぁーっ」 「静かにっ。ばれたらまずいっ」 逃げるつもりで牢屋行きって何さ! |