過去(2012年頃)のもの
『祈る』 3000字程度 / 現代
『午後二時』 1000字程度 / 現代
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祈る
面白くなかったと言えば、嘘になる。文化祭は楽しかった。クラスメイトと店番したり、吹奏楽部や有志バンドの演奏に盛り上がったり、友達とアイスを食べたり。平凡な一生徒として、人並みに、楽しんだ。楽しんだつもりだった。けれど、今私の抱くこの感覚は、楽しんだからこそのそれではなく、物足りなさからのそれなんだろう、と思った。
身体の中身が空っぽになったみたいな、虚しさ。
文化祭は片付けまですべて終わり、クラスの打ち上げは後日やることに決まって、解散。しばらくの間は、教室や廊下でふざけている男子の声で騒がしかったが、それも収まって、昼間あんなに活気に満ちていた学校は静けさを取り戻した。こんなときでも受験に向けて黙々と勉強を続ける、真面目な上級生くらいしか、もうここには残っていないだろう。
受験生でも勉強熱心でもない一年生の私は、何をするでもなく暮れゆく教室の外を眺めていた。疲れているんだから帰ればいいのに、と自分でも思う。どうせもう何もないのに、こんなところにいたって時間の無駄なのに。そう考えても私は帰る気になれなかった。虚しさが、私の足を動かそうとしない。ここにいれば、もしかしたら、空っぽが埋まるんじゃないかと。
何もしないくせに、何かに期待して。かまってちゃんかよ、と心の中で自分を嘲笑った。
「一緒にいてくれる友達もいないくせに」
ひとりごとが、誰もいない教室に、低く、反響する。
昇降口の近くで、まだはしゃいでいる人たちがいた。男女各数人ずつ。その中に、昼の間私と一緒に行動していた親友を見つけると同時、その彼氏の姿も目に入って、私は一度、窓に背を向けた。
すっかり乾いた唇を噛む。
たぶん女だから、と彼女は前に私に言った。たぶん女だから、恋しちゃったらそれがすべてになっちゃうの。普通の日がね、きらきらするの、楽しくてたまらないの。彼と全然関係のないことでもね、なんでもできるような気がするし、本当になんでもできちゃうんだよ。
幸せそうに語る彼女に、私は苦笑することしかできなかった。
いいなあ、私は人を好きになったことなんてないから。私はどうしたら、誰かを好きになれるんだろうね。
親友は優しそうに微笑んで、いつか絶対好きな人見つかるから、自分を磨いて待ってるといいよとか何とか、そんな感じのこと、言ってたっけ。
(絶対、なんて、この世の中にあるわけないんだよ)
現実には、白馬の王子様なんて現れないし、街角で素敵な出会いがあるわけでもない。
窓の外に視線を戻すと、親友のいたグループが校門のほうへ向かっていくところだった。彼らの背中はどれも楽しそうに弾んでいて、彼らは青春しているんだろうな、と他人事のように思った。彼らの仲間に、私はきっとなれない。あんなふうに、毎日笑ってはいられない。私はきっとこうやって、ずーっとひとりで、馬鹿みたいにうだうだ悩んでいるのがお似合いなんだよ。
(ずーっと、ひとりで)
自分で自分の言葉を反芻して、目のふちに涙が滲んだ。馬鹿みたい。ほんと、馬鹿みたいだ。
下校時刻を告げる放送が遠くで聞こえた。私は中身の少ないスクールバッグを肩にひっかけ、何かから逃げるように早足で教室を出る。先ほどまで動こうとしなかったくせに、私の足はようやくすべてを理解したかのように先を急いだ。こんな場所にいたって、空っぽは広がっていくばかりだ、ってこと。
私は焦っているんだろうか。高校生になった今なお、初恋すらもしていないことに。それとも嫉妬しているんだろうか。隣のクラスの男子に恋して、付き合い始めて、どんどん可愛くなっていく親友に。
階段を駆け下りながら、自分の将来を想像する。私はきっと、このまま誰を好きになることもなく大人になって、全然好きでもない男の人と結婚して、平凡に一生を終える。ううん、結婚なんてできないのかも知れない。一生一人暮らしで、子供も産まず、親も亡くなり友達も亡くなり、今度こそ私は本当にひとりぼっちになる。
(そんなの、いやだ)
だったら、だったら何とかしなさいよ、私。
待っているだけで寄ってくる人なんて、いない。
俯いたまま昇降口で靴を履き替え、立ち上がって顔を上げると、十数メートル先に身長差のある二人の人影が見えた。またカップルか、と私は溜め息をつく。文化祭の間中、うんざりするほど見かけた。
気にせず、さっさと追い越してしまおうと思った。思ったけれど、だめだった。
手を繋いだその二人が途中で立ち止まり、互いに顔を近づけて何をしているか、遠目にもわかってしまったから。
私は一瞬立ち止まった。
尖った氷に胸を貫かれた気がした。その冷たさの代わりに、喉が焼けるように熱くなって、私は何かを考え始めてしまう前に、駆け出す。彼らに近付くまいと、遠回りして、校舎の裏側の門から出て、走った。頭の中まで空っぽにして、走った。走って、走って、逃げた。
(いやだ、見たくない)
あのカップルも、まるで私とは別の世界に生きているみたいで。
(目の前でキスなんかしないで)
“普通”と違う世界に生きているのは私のほうなんだってことを、思い知らせないでほしい。
走り疲れて歩き始めるころには、もう自分の家のそばまで来ていた。
(なにパニクってるんだろう、私)
視界は曇り、頬に当たる秋の風がやけに冷たい。私は歩きながら携帯を開いて、アドレス帳をざっと眺める。並んでいるどの友達の名前を見ても、私の空っぽをわかってくれそうな人はいなかった。親友の名前に辿り着く。発信ボタンを押そうか迷って、やめた。彼女はまだ、彼氏と一緒に違いないのだ。あの子の幸せを邪魔するのは、嫌だ。
今のあの子にとっての一番の幸せは、彼氏と一緒にいることで、私と話すことじゃない。どう考えたって私の優先順位は一位じゃない。他のどの友達にとっても、たぶんそう。
(一人でいい。一人でいいから、誰か)
私を一番にしてほしいと、思った。
玄関の扉を開ける。ただいまの挨拶もせずに、私は階段を上り、自分の部屋のベッドに制服のまま倒れこんだ。耳に冷たい雫が伝う。
ただ、寂しいだけなんだ、私は。
空っぽを満たしてくれる何かが欲しい。欲しいけど、それが見つからないだけ。
あまりの馬鹿馬鹿しさに自分を笑った。
簡単そうな問いなのに、な。答えは案外、身近にあるかも知れないのにな。
……夕食まで、まだ少し時間がある。眠ってしまおう。ひとりぼっちで。
眠ってリセットしてしまおう。泣くのはおしまい。もうおわり。
夕日と一緒に落ちていく意識の中で、こんなことを考えた。
もしいつか、私を一番にしてくれそうな人を見つけたら。
私もその人を一番にしよう。全身全霊をかけて、その人を好きになろう。
たとえ、その人との関係が一生じゃなかったとしても。人生を平凡なまま、退屈なまま終わらせないために、その時だけでもその人の一番であり続けるために、身を砕き、骨を粉にする。
そんな恋がしたい。
午後二時
「引っ越しました」のハガキが届いたのは、彼とのやりとりが途絶えて3か月ほど経ったころのことだった。彼がどういう事情で引っ越したのか知らないが、ハガキに書かれていた住所は以前よりも私の家の近くで、会おうと思えば簡単に会いに行ける距離なんだなと、なんだか他人事のように思った。
気を紛らわしに、散歩にでもでかけることにする。外はまだ肌寒い。私はいつもと同じ白いコートを羽織り、春色のマフラー片手に部屋を出た。お気に入りの散歩道に並ぶ桜の木々はまだ花を咲かせず、しんと俯いている。
何が原因かも忘れてしまうほどに些細なことから喧嘩して、それ以来連絡を寄越さなくなったのは彼のほうだ。互いの言うこと為すことすべてにいちいち腹を立てて、ずっと仲直りできないまま何日も言い合って。運悪く、精神的に不安定な時期も重なったのだろう。もう嫌だ、もう関わりたくない、と思いながらも、やがてメールの一通も送られてこなくなったことに絶望して、悔しさのあまり涙をぼろぼろ零しながら、いっそのこと、本気で黒魔術でも習って呪ってやろうかと思ったくらいだ――今思うと、どう考えたってばかばかしくて、笑える。
歩き疲れて、道の脇にあるベンチにひとりで腰かけると、鳩が一羽近寄ってきた。群れからはぐれたのだろうかと、私は黙って眺める。駅前で見かける鳩より、心なしか痩せている。鳩は私が餌をくれる人間ではないようだとわかると、少し離れたところでうろうろしていた。諦めきれないみたいに。
諦めて、他の誰かを探しに行けばいいのに。
冷たい空気が指先を刺す。日差しが穏やかなのだけが、春が近づいている証のようだ。
私も彼も、自分の意見をなかなか譲らない人間だった。ひとたび亀裂が入ってしまえば取り返しのつかなくなるような仲だということはおそらく、どちらも薄々自覚していた。だからこそ、慎重に付き合ってきたつもりだった。
「きっと最初から相性悪かったんだよね」
話しかけても鳩は逃げなかった。
「でも」
好きだったよ。
鳩は私の言葉なんて理解しない。私の感情も理解しない。一定の距離を保ったまま、けれど確かに私の存在だけは認識している。
(忘れてくれていいよ)
目を閉じた。
(私はきっと忘れる)
目を開けても、相変わらず鳩はそこにいる。
私は立ち上がった。鳩がまた私のほうへつい、つい、と歩いてきたが、道を間違えたかのように途中で向きを変えると急に飛び立った。
ばさばさと大げさな音を立てて、上へ、上へ。
(ばいばい)
目で鳩を見送る。
(二度と会うことはないだろうね)
空が青いなあと思った。
ほんの少し嬉しくなった。
さて。
音を立てるものがいなくなった並木道を軽やかに、私は帰ることにする。
私にはもう迷うことはない。立ち止まらなければ鳩の目にも留まらない。ならばそう、立ち止まらなければいいのだ。