『僕と一緒に死んでください(仮)』朽留りょう
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文庫本1冊分程度予定(長編)/ 現代ファンタジー / ライトノベル / 陰鬱
心を病んだ女の子のような少年と、それを助けたい人たちの物語

更新履歴
160316 1章公開

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1章(1)

 玄関の扉を開けると、外に立っていたのは二人の警官だった。
「レグナシェスさんですね。我々――」
 僕は警官が身分証を取り出そうとする間に笑顔のまま扉を閉めて施錠した。不意を打たれた二人が扉の向こうで呆然とする様子が想像できたけれど、僕には関係のないことだ。一拍置いて始まる、怒ったような調子で僕の名前を繰り返し呼ぶ声と、扉を連打する音を背に、僕はやれやれと階段を上がる。彼らが任務を遂行できなくたって、僕の知ったことではない。僕は何も知らない、知らないったら、知らない。
 自分の部屋に用意しておいた荷物を肩にかけて、僕は溜め息をついた。とうとうこの時が来てしまったのか、と思った。もう二度とこの部屋に戻ることはないのに、いまひとつ、実感がわかない。
 思い出が蘇る前に、僕は静かに階段を下りて裏口に向かった。外に人の気配はない。僕なら裏口に一人くらい仲間を置いておくんだけどな。僕一人捕まえるのに、そんなに人手がいらないと思われているんなら、少々不服だけれど、まあ、好都合だ。そっと裏口の戸を閉めて、僕は十数年過ごした我が家を一瞥し、駆け出す。目的地は、街中にある僕の所有地。僕は使うことのない、小さな倉庫だ。
「ああっ、容疑者逃げました!」
 新人らしい警官の間抜けな叫び声に続けて、上官の怒鳴り声が追ってくる。僕は舌打ちして、走る速度を少しだけ上げた。捕まるわけにはいかない。何も知らないあの人たちに捕まるのは時間の無駄以外の何物でもないし、もう十分無駄にされた。
 わざと回り道をして、薄暗く細い路地を駆け抜ける。晴れた日の昼下がりだというのに、街は深夜よりも静かなくらいだ。誰とすれ違うこともない。少し前までは、活気があって騒がしいくらいだったのに。
 怯えている、のだろうか。自分がいつ、同じ目に遭うか知れないと。
(誰も殺しやしないのに)
 僕に無差別殺人の趣味はないし、これから増える予定もない。
 煉瓦作りの建物の壁に背を預けて、僕は深呼吸した。耳を澄ます。足音や人の声は聞こえない。うまく撒けただろうか。
 これから向かう先に目的の人物がいなかったらどうしよう、という不安が一瞬頭をよぎる。いや、今はいい、考えるのはその時だ――また駆け出そうとして、振り返って呼吸が止まった。
「動くな」
 ――何故気づけなかった。
 まっすぐ僕に向けられる小型ナイフの矛先に、僕は身をすくめる。そこに立っていたのは私服の中年男性だった。おそらくは、僕が街中に逃げたと連絡を受けた、非番か、私服で巡回中の警官。緊張で歪んだ顔にうっすらと、勝ち誇ったような笑みを浮かべて僕を見下ろしている。
「君がこの間の事件の容疑者なんだろう? なあに、素直に本当のことを言えば、警察だって――」
 僕は相手が喋り終わる前に相手のナイフを蹴飛ばして落とした。間髪を入れずに自分のナイフを胸ポケットから取り出す勢いのまま、警官の首に突きつける。
「油断なさいましたね」
 蹴飛ばした拍子に、飛んだナイフが僕の左頬を軽く切ったらしい。頬を生暖かい液体が伝うのを感じたけれど、笑みを浮かべるのは僕のほうだ。
「見た目に騙されるの、よくないですよ」
 呆気にとられた相手の鳩尾にすかさず蹴りを入れ、僕は再び駆け出す。
 逮捕される理由に暴行罪が増えてしまった。これもまた、どうでもいいことだけれど。

 目的の倉庫の鍵は開いていた。つまり、中に人がいるということだ。僕はちょっとだけほっとして、少しだけ開けた扉から滑り込むようにして倉庫の中に入った。すぐに内側から閂をかける。中身のよくわからない木箱の山に囲まれた、薄暗く狭い空間の真ん中に、薄い毛布を敷いて寝転がる若い男がいた。若いと言っても、僕よりは年上だ。その上、見た目だけだ。
「起きろ」
「うっ」
 僕が背中を爪先で小突くと、彼は呻き声を上げながら昼寝から目覚めた。上半身を起こすと、寝癖のついた黒髪を手で押さえつけながら、眩しそうに目を細めて僕を見上げる。薄紫色の目をした彼は、名前をナイジェル・セゼイルと言って、僕とは――なんだろう。友達と呼ぶには恥ずかしい、どうしようもない男だ。知り合いということにしておこう。
「あ、シャルルくんだ。おはよう」
「出発だ」
 大きな欠伸をしたナイジェルは、僕の言葉の意味を理解するのに数秒かかって、顔を手で覆いながら「まじか……」と呟いた。
「家に警官が来たから逃げてきたんだ。撒いたつもりだけど、早くしないと追手がくるかも知れない」
「そりゃあ大変だ」
 彼は全く緊張感のない声で言うと、立ち上がって床に敷かれていた毛布をどける。
 毛布の下から現れたのは、白墨で描かれた何重かの円の中に、幾何学的な図形と、見慣れない文字の羅列。最近ではあまり見かけなくなった魔法円の一種だ。一か所だけ不自然な空白を残してほとんど完成しているように見えたが、毛布を敷いていた部分が擦れて薄くなっていた。描いた張本人であるナイジェルは、消えかけた部分を見てのんきに笑い声を漏らす。僕は少々苛立った。
「あらー、オレの寝相が悪いせいで」
「早く描き直して。間違ってたりしたら大変なことになるんだろ。急げ」
 はいはい、と気のない返事をして、けれど素直に薄くなっている部分を描き直し始める。終わるまで、僕は窓の外に目を凝らしていた。隣の建物が邪魔で、倉庫の入り口側はよく見えなかったが、相変わらず人通りはなさそうだった。
「直したよ、あとはそこに名前を書いて、オレがぶつぶつ言えば完成。用意はいいですか、陛下」
 ナイジェルが白墨で汚れた手を叩いて払ったちょうどそのとき、窓の外に人影が見えた。僕はカーテンをさっと閉め、線を踏まないように円の中に足を踏み入れる。同じく円の中に立った彼は、僕の顔を不思議そうに見下ろして、右手の親指で僕の左頬を撫でた。
「いいよ、見つかったかも知れないから急げ」
「はーい。シャノン、だったよね」
 倉庫の扉がノックされた。誰かいるか、と問う警官らしき人の声に、ナイジェルは扉のほうをちらっと見てから僕に向かってにやっとする。
「たぶん喘ぎ声とか上げれば入ってこないと思うよ」
「急げって言ったの忘れたか?」
 彼は唇を尖らせて屈み、最後の数文字を書くと、そのまま魔法円を発動させるための呪文を小さな声で唱え始める。僕は扉のほうを向いて立ったまま、ナイフを取り出す。ナイジェルのマイペースっぷりに、僕はちょっと焦っていた。何らかの術式で閂を外されて邪魔される前に、唱え終えて発動させてもらわないと困る――と思った頃にはもう、閂がふわっと浮いて、カランと音を立てて床に転がっていた。
 だから急げって言ったのに。
「動かないでくださーい」
 僕は訪問客に見えるように、ナイジェルの胸倉を掴んで、彼の首にナイフを当てた。彼はちょっとだけ困った顔をしたが、あまり口を開けないようにして詠唱を続けている。倉庫の扉を開ける動作のまま固まっている警官は、僕の家に来たのと同じ二人だった。
「ちょっとでも僕の邪魔をしたらこの男を殺しまーす」
「お、おい、やめろ!」
 若い方が叫ぶのを、年配の方が慌てて止める。その様子が滑稽で、もうちょっとからかおうかと思ったんだけれど、思ったよりも早く呪文が終わってしまった。魔法円が微かに光を放ち始める。僕は安心してナイフを下ろし、円の一部に目を向けた。
 "Shanon"、と書いてある。

 ……は?

「……ナイジェル」
「あっお巡りさんたち、それ以上近づかないでね、バラバラ死体になるよ。ん、何? シャルルくん」
 僕は力なくナイフを胸ポケットにしまった。どうなるんだ、これ。
「……綴り、間違ってる」
「うそ!」
 警官が聞いた、僕らの最後の会話はきっとこれだっただろう。円の周りが突然ぼやけて、溶けるように色を失っていく。
「nが一個足りない……」
 そんな名前の人間は、恐らくどこにもいない。
 もう止められないであろう魔法円の中で、僕は額を押さえて、天を仰いだ。
「まじかよ! 早く言ってよ! えええ!?」
 ナイジェルの阿呆みたいな声がだんだん遠ざかる。すぐそばにいたはずなのに、既に近くに彼の気配はない。
「馬鹿!」
「すみませんでしたあ!」
 ほとんど絶叫のような声が微かに聞こえた。
 ああ、僕はどうなるんだろう。
 どうしてバカに頼ったんだろう。
 警官に捕まってた方がマシだったんじゃないかな……。

 そんな風にして、僕は故郷を去った。
 もうちょっとかっこよくいなくなりたかったな、と、思わないでもない。
 
   ◇

 わたしがシャルルに初めて会ったのは、夏休みが明けたばかりの、普通の、暑い日の午後だった。普通じゃないことと言ったら、たまたま午前授業だったことくらいで、ほんとにほんとに普通の日だった。シャルルが突然現れるまでは。
 学校から帰ったわたしは、制服のまま、昼ごはんにカップ麺でも食べようと思ってやかんを火にかけた。台所で鼻歌を歌いながらお湯が沸くのを待って、お湯を注いだ容器を居間に運んで行き、テーブルに置いた、ちょうどその時だった。
 台所のほうから凄まじい音がして、わたしは跳び上がった。暴走した車が突っ込んできた、くらいの音量だったけれど、音の感じからは何が起きたのか全くわからなくて、わたしは恐る恐る、振り返って台所のほうを覗き込む。
 台所自体は、意外なことに、何ともなかった。けれど、ついさっきまで私が立っていた場所に、見慣れない誰かの姿があって、わたしの頭の中は一瞬にして疑問符でいっぱいになった。
(え、誰……)
 その子の歳は体格的に十二、三歳くらいだと思う。正座を崩したような格好で床にぺたんと座り込んでいて、右手で額のあたりを押さえていた。床に左手をついて前屈みになっていたから、顔が見えなかったけれど、女の子で間違いない。一本一本が透き通る飴細工みたいな金色の髪は、肩にかかるかかからないかくらいの長さだった。紫色の大きな襟が目立つセーラー服を着ていたけれど、下がスカートじゃなくて裾のくしゅっとしたパンツだったから、学校の制服ではなさそうだ。すぐ傍には細長い、変な形の鞄が落ちている。そういえばさっき、よくわからない音に交じって、こんな感じの鞄が倒れたらしそうな音がしたかも。
 わたしは静かに、ちょっとだけ近づいてみた。その子はわたしの気配に気づいてゆっくりと顔を上げる。前髪が目を覆い隠してしまいそうなくらい伸びていたけれど、隙間から上目遣い気味にわたしを見る淡い黄緑色の目が、すごくきらきらしているのはわかった。まるで瞳にペリドットを埋め込んだお人形さんみたいだった。
(可愛い!)
 一体何者なのかとか、どうしてわたしの家の台所にいるのかとか、そういうたくさんの疑問が風に吹かれた枯葉みたいに一気にぶわーっと吹き飛んで、可愛い、としか思えなくなる。都会に行けば、人混みの中でも歩いて数分としないうちにスカウトの声がかかりそうな、小顔の美人さんだ。前髪を切ったら、きっともっと可愛いのに、勿体ない。わたしが何も言わずにいると、金髪の女の子は目をぱちくりさせて、小さな口を開いた。
「……あなたは誰ですか」
 声は予想よりもずっと低いアルトだった。吹き飛んだ疑問がばらばらと戻ってくる。疑問の数々の中に、どうして日本語話せるの、が増えた。どう見ても日本人には見えないのに。
「わ、わさ、わたしはさゆり、だけど、えっと、えっ、な、あなたは……」
 緊張でカミカミになって、恥ずかしくて笑ったけれど、女の子はにこりともしなくて、余計きまりが悪くなった。彼女は少し考え事でもするみたいに目を伏せて、やっぱり上目遣いで、またわたしを見る。
「僕は」
 あれ? ぼく? ああ、自分のことボクって言う子かな、たまにいるよね。
「シャルル・レグナシェス=ルドベキアと言います」
 シャルルちゃんか、可愛い名前だな、と思いかけて、何かひっかかる。シャルルって名前、どこかで見かけたことがある気がするけど、どこだっけ。何かの漫画かな。世界史の教科書だったかな。ん? ……女の子の名前だったっけ?
 シャルルと名乗るその子は、長い睫毛を何度も上下させながら周りをきょろきょろと見回して、傍にあった鞄を落ち着かなそうに自分のほうへ引き寄せた。セーラー服の袖からは、指しか見えていない。暑くないのかな。
「あの」
 窓のほうを向いたまま、シャルルは呟いた。
「ここはどこですか」
 ここはわたしの家だけど、この子が訊きたいのはたぶんそういうことじゃないよね、とわたしはちょっと考える。この子はいったい、どこからどうやってここに来たんだろう。
「え、えーと、日本っていう国の、夕霞市っていう街にある、わたしの家の台所……」
「ああ、知らない国だ」
 シャルルの独り言のような言葉に、わたしはぽかん、として言葉を失う。
 どうしていいかわからないでいるわたしの前で、シャルルはしばらく黙っていたけれど、なんだか観念したみたいにふーっと息を吐いて、気怠そうに立ち上がった。わたしよりほんのちょっと背が低い。それから、踵を重心にくるっと回ってわたしのほうを向くと、細い眉をほんの少し下げて、困ったような笑顔で言った。
「ナイジェル・セゼイルがどこかなんて、知りませんよね」






1章(2)

「痛っ!」
 オレは固いコンクリートの床に尻を強打して声を上げた。めちゃくちゃ痛い。よりによってコンクリート! この野郎、無駄に身体が丈夫なオレだからいいものを、普通の人ならケツの骨折れてるぞ、オレ以外にこんな目に遭わせたら許さん、とまで思ってから原因が自分であることを思い出す。クッソー、オレの馬鹿。
 今どき魔法円での逆召喚なんて古くさい方法を使ったのが悪かったんだ。あれはそもそも確立された移動手段ではないし、一文字でも間違えば術者が想定しない挙動をする。だからルドベキアでも扱いづらい術とされていて、素人が手出ししてはいけない術の一つに数えられていたはず。今回だって、一文字抜けてたんだから作動しないでくれればいいのに、このザマだ。このじめじめした薄暗い場所がどこだか見当もつかないし、シャルルが迷子になってしまった。
 いや、でもさ。人が気持ちよく昼寝してる時にいきなり出発とか酷くない? 警官がそろそろ逮捕状持ってシャルルを捕まえに来そうな感じはしてたんだしさ。ちゃんと準備して早めに動くとかできたんじゃないの? 寝起きの頭で焦って逃げようとしたらそりゃあ綴りの一つや二つ間違えるって。ねえ? 確かに追われたら一緒に逃げようって約束はしたけど。したけどさあ。
「ねえ、あんた誰?」
「うわ!」
 突然背後からかかる声に、オレは慌てて後ろを向こうとしてまた尻餅をついた。痛い、今痛いんだってば、ケツ。
「驚かせてごめんよ。もっとも、先に脅かしたのはあんたのほうだけど」
 オレを見下ろしていたのは、華奢な体格をした、二十歳手前くらいの男――いや、男っぽい格好をしているだけで、女だな。仁王立ちで、紺色のパーカーのポケットに両手を突っ込んでいる。
「誰!?」
「声が大きいな。ボクのことはルイと呼んでくれればいいけど、ボクが先に訊いたんだよ、それ」
 話し相手は首を傾けて、呆れたような顔でオレを見ている。深緑のキャスケット帽から少しだけはみ出している髪は、薄暗くてよく見えないが、淡い金色のようだ。髪が長くても帽子の中に隠せそうだな、と思った。オレは一度腰を浮かせたが、オレのほうがだいぶ背が高そうなことに気づいて立つのはやめ、その場にあぐらをかいた。人に見上げさせてしまうのはあんまり好きじゃない。
「一つ訊いていい?」
「ボクの質問に答える気はないのかなあ」
 呟きながら不機嫌そうに視線を逸らす相手の様子が、ちょっとシャルルを彷彿とさせて、反射的ににやけそうになったのを、オレは咳払いで誤魔化した。
「キミは女の子って認識でいいんだよね?」
 相手はオレの質問に青い目を一度見開いた後、訝しげな目つきをしてオレを上から下まで眺め、答える。
「いいや、男だよ。チビで悪かったね」
 うーん。絶対女だと思うんだけどなあ。世の中にはシャルルみたいな男も存在する以上、勘でしかないんだけど、オレの勘はだいたい当たるし。
「そろそろボクの訊いたことに答えてよ。あんた、どこから来た誰」
「ああ、オレはナイジェル。出身はルドベキア」
「じゃああんたもあっちから来た人か。幸か、不幸か」
 幸か不幸かって何がだよ、と問う前に、ルイの目線を追った先にあったものに目を疑う。
 鉄格子。
 鉄格子?
「…………」
「いろいろあって、よくわかんない連中に捕まっちゃったんだよね」
「…………」
「そういうわけで一緒に抜け出す方法探さないかい?」
「…………」
「抜け出さないことにはあんたも何もできないしね。ねえ、訊いてる?」
 オレは笑い出した。いやあ、笑うしかないだろう、これは。
「オレってほんとついてない馬鹿だなあー!」
「ちょっと、うるさいよ、静かにしてよ」
 警官から逃げて牢屋に入る馬鹿がいるかよ!

   ◇

 さゆりは落ち着かない様子で台所と居間を行ったり来たりしながら、僕を居間のテーブルに着かせると、取っ手のないカップでお茶を出してくれた。僕が湯気が立って見るからに熱そうなそれに触らずにいると、とんでもない失敗をしたような深刻な顔をして「夏だった……」と独りごちる。
 彼女は僕と同じくらいの歳だろうか。悪い人ではなさそうだ。
「あの、まずは何がどうなってここに来たのか、教えてほしい……な……」
 面白いくらい視線を泳がせながら、さゆりは僕に訊ねた。わけのわからない場所に着いて動揺しているのはこちらも同じだけれど、そこまでわかりやすく顔に出されると僕のほうはなんだか落ち着いてしまう。
 嘘と本当をどの程度混ぜて話すか考えながら、僕は口を開く。
「僕はこっちの世界の人間ではないんですけど――こっちの人は異世界の認識ってありますか」
 さゆりは返事をする代わりに苦笑いで首を傾げた。
「世界は二つあるんですよ。少なくとも僕のいたところでは、こちらの世界のことはお伽噺として語られる想像の世界でしかなかったんですけど、実在することは今よくわかりました」
 正直に言えば、僕もまだ信じきれていないところはある。けれど、テーブルを挟んで座る女性は、顔立ちや肌の色の感じを見る限り、僕がこれまでに出会ったことのない人種のようだし、用途もよくわからない家具が置いてあることを思うと、ここが別の世界――あるいは、別の世界と言っていいほどに文化の異なるところであることは信じざるを得ない。
「あー、そのへんは同じ、なのかな? 異世界なんてファンタジーだと思ってたよ、わたしも。えーと、シャルル、ちゃん? は、違う世界から来たのね。ううううん、なるほどー……」
 言葉とは裏腹に、全く納得のいかない様子でさゆりは腕を組む。
「あの、勘違いされてるみたいですけど、僕、男ですよ」
 へ? と間の抜けた声で訊き返される。顔の作りと背の低さのせいで、女に間違われるのは慣れっこだけれど、いちいち説明するのはちょっと面倒だった。でも僕、女になりたいわけじゃないし。女として扱われても困るし。
「間違われないことのほうが珍しいですけど、女じゃないですよ」
「え、そっちの世界では男と女が逆なの? うーん?」
「そうじゃなくて。僕が女顔なだけです。話を続けて構いませんか」
 さゆりの眉根に寄る皺は濃くなったが、「お、おー」と言ったので、僕は話を戻す。
「僕はどうやらこちらに来ているらしいシャノンという女の人に用事があるんです。どこにいるかまではわからないので、知り合いのナイジェルって奴と協力して、手っ取り早く彼女の住処に行けるような魔法を使ったんですけど」
「ま、魔法が使えるのね……」
 さゆりは驚いた様子で溜め息を漏らす。こちらの世界には魔法が存在しないと聞いているけれど、それが本当なのかどうか確かめるのは後にすることにした。
「ええ。でも彼のせいで失敗したんです。それで、気がついたら僕はそこに。一緒に来るはずだった彼まで行方がわからなくなってしまいました」
 言いながら、僕は台所のほうをちらと見た。人の名前の綴りを間違えるようなあいつが悪いけれど、それにしても、たった一文字抜けただけでどうしてこんな民家の中に着くのか、僕にはさっぱりだ。厄介な術だ、というあいつの話は本当だったらしい。さゆりはまだ混乱しているようだけれど、無理もないとは思う。僕だって、家の中に突然異世界人が現れたらどうしていいかわからない。
「じゃあ、シャルル、くん? は、迷子なのかあ」
「その呼び方気持ち悪いのでやめて頂けませんか」
 満面の笑みで「シャルルくん!」と呼んでくるナイジェルが脳裏に浮かんだせいで吐き捨てるような言い方になって、僕は小さく「すみません」と呟いた。さゆりが「いやいやいや」と手を振る。まったく、あの男はどこに行ったんだ。願わくは、僕より変な場所について困ってほしい。苦労して反省してほしい。
「あ、ならシャルルも普通に、敬語じゃなくていいよ」
「いえ、僕はこのほうが楽なので」
「そ、そっか、おっけーおっけー」
 それから十秒ほどの沈黙を経てから、さゆりは遠慮がちに手元の大きなお椀を指差して「これ、インスタントラーメンなんだけど、伸びちゃうから食べていい?」と訊いてきた。僕は頷く。インスタントラーメンとやらが何かは知らない。
 さて、僕はどうすればいいんだろう。長年定職にも就かずに国中を遊び歩いている誰かさんとは違って、僕ひとりでは生計を立てられないし、この世界のことは何一つわからない。言葉が通じるのは幸いだけれど、シャノンの居場所に何一つ手がかりがないこの状況では、「だからどうした」程度の幸いでしかない。僕にも、ナイジェルがやったような逆召喚ができればいいのだけれど、あいつが失敗するものを僕がうまくやる自信はゼロだ。僕にできることといえば――。
 ……ああ、僕にもできることがあるじゃないか。どうして今まで忘れていたんだろう。
「ナイジェルさんもどこに行っちゃったかわからないのかあ」
 空腹が満たされたからなのか、さゆりは先ほどよりリラックスした調子で言った。僕はじっとテーブルの木目を見ながら「ええ」と相槌を打つ。
「どんな人?」
「変な奴です。女性の家を転々として自分では働こうともしないクズです」
「あ……そう、なんだ……」
「海に沈めても死なないような男なので心配はしてませんけど、困りましたね。鬱陶しいけど傍に置いておくとなかなか便利なんですよ。早く僕のこと見つけてくれればいいんですけど、彼のことだからそのへんの女の人ナンパしてそうですね」
「シャルルって可愛いけど、なんか……ブラックだね……」
 視線だけを上げてさゆりを見ると、細い二本の棒で器用に麺を啜って咀嚼していた。僕のほうは見ない。僕は木目に視線を戻して「そうですね」と言った。
 それから、さゆりが昼食を食べ終わるまで、僕は何も言わなかった。この後やることは決まった、後はタイミングを見計らうだけだ。できることなら、自分の力を悪用するような真似はしたくないんだけれど、やむを得ない。こうなったのは僕のせいじゃないし、彼女を傷つけることはしないから、別にいいんだ、ナイジェルに会うまでのほんの数日だし、この国に本当に魔法が存在しないなら罪にも問われないはずだ、何も躊躇う必要はない――と、思っていたのに、さゆりは僕の計画を次の一言で打ち砕いた。計画が必要なくなったということだから、別にいいのだけれど、僕は少々耳を疑った。
「嫌じゃなかったら、なんだけど、ナイジェルさんに会えるまで家にいてもいいよ」






1章(3)

 俯いていたシャルルは顔を上げて「?」という顔をした。瞳が羨ましいくらい大きくて、これで男の子だなんてとても信じられなかった。
「……いいんですか?」
 わたしは「うん」と頷いた。シャルルは口をちょっと開けたまま、何か考えるように目をあちこちに動かす。なんだかシャルルを見ていると、ネコでも見ているみたいな気持ちになるなあ、と思った。小っちゃくてふわふわで、撫でたい感じ。
「二人とも、どこにいるかわからないんですよ……?」
「じゃあやめとく?」
 シャルルがすかさず「いや、それは」と言うので、わたしは思わずくすっと笑ってしまった。さっきまでわたしのほうが慌てて脳みそぐるぐるしていたのに、今はシャルルのほうがうろたえている。
「シャルル、まだ子供でしょ? そこらへん歩いてたらたぶん補導されちゃうし、じゃなきゃ誘拐されちゃいそうだから、しばらくここにいていいよ。その歳じゃ働けるところもないと思うし」
 子供、という言葉にシャルルの表情はちょっぴり不機嫌になった気がした。子供と言われて機嫌が悪くなるのは、子供な証拠だよね、と、わたしも大人なわけじゃないのに微笑ましく思ってしまう。
「僕、いくつに見えてますか」
「え、十三歳くらいじゃないの? もしかして不老不死だったりする?」
 シャルルはふくれっ面になった。あ・ざ・と・いの四文字がわたしの頭の中にどすどすと積み上げられる。そんな顔されたら、男の人は誰だってこの子のわがまま聞いちゃうんだろうなあ、ずるいなあ! と思ってから、シャルルが自称男の子なのを思い出して愕然とした気持ちになった。
「不老不死なんて滅多にいませんよ。僕は十五です」
 わたしの一個下だったのは予想外で、わたしは苦笑しながら謝った。十五歳の男の子にしてはどう考えても背が低すぎると思うんだけれど、数え年かも知れないし、本当に別の世界の人なら、わたしたちとは違うものを食べて生きているのかもしれない。
「ありがとうございます、お世話になります」
 シャルルはやっぱり困ったような笑顔で言った。

 その後は、わたしのばあちゃんが仕事から帰ってくるまで、いろんなことを話した。シャルルの趣味がバイオリンなこととか、ナイジェルさんがいかにダメな人間かとか。シャルルはナイジェルさんのことを知り合いと言っていたけど、話を聞く限り、本当は仲良しなんだろうなあと思った。わたしのほうからは、ばあちゃんと二人暮らしで、高校生なこととか。日本には魔法なんてないよ、たぶん、とか。シャルルのいた国は、ルドベキアといって、魔法が存在する代わりに、電気で動くようなものはないらしい。シャノンさんという人に何の用はあるのかは教えてくれなかった。
「ある人からの頼まれごとなんですよ。だから言っちゃいけない約束で」
 そう答えるシャルルの表情は苦い感じで、相当面倒なことを頼まれたのかな、とわたしは思った。こんなに小さい子に頼むことなんて、いったいどんなことなのか気になったけど、あんまり訊かれたくなさそうなのでそれ以上は追求しなかった。
 ばあちゃんが仕事から帰ってきたのは夕方だった。放任主義のばあちゃんは、わたしが友達を家に連れてきても挨拶くらいしかしないけど、今回はシャルルを見て立ち止まり、わたしを見て、「こんな友達いたか?」という顔をする。
「お邪魔しています」
 シャルルは立ち上がって、ゆっくり丁寧にお辞儀した。
「ばあちゃんあのね、この子、迷子で行くところないんだって。家に置いてあげようよ」
 わたしは経緯を説明する。異世界とか、魔法に失敗してはぐれちゃったとか、絶対普通の人なら本気にしない話を、ばあちゃんは驚くほどあっさり聞き入れてくれた。ばあちゃんは昔からそうで、学校の友達や先生が馬鹿にして聞いてくれないような話でも、「そうかそうか」と聞いてくれるから、そういうところがわたしは好きだった。テキトーなだけかも知れないけど。というか、たぶんテキトーなんだと思うけど。
「ばあちゃんは構わないけども、さゆりがちゃんと世話するんだよ?」
 ばあちゃんはまるでペットの話みたいに言った。シャルルもそう思ったのか、一瞬怪訝な顔をして、けれど「ありがとうございます」とまたお辞儀をする。
「二階に空いてる部屋があるからそこを使えばいい。さゆり、案内してやりな」
「うん! ついてきて!」
 空いているのは、階段を上がってすぐ左手の、ずっと昔はお母さんの部屋だったところ。シャルルは大人しく、階段を駆け上がるわたしについてきた。扉を開けると、部屋の中は蒸し暑くなっていて、わたしは窓を開けに向かう。
「ここ、たまーにね、従兄弟が泊まりにきたりするの。掃除機かけたほうがいいかなあ。あ、布団はあとで持ってくるね。何か他に必要なものある? 何かあったら言って」
「親切ですね、さゆりさんは」
 シャルルはわたしの後ろで、落ち着いた低い声で言った。
「僕、怪しくないですか」
「そうかな? 悪い子には見えないよ」
 わたしは部屋の片隅にある電子ピアノにかけてあった布のカバーを外して、窓の外に埃を払いながら答えた。小さい頃はわたしもピアノを習っていて、ときどき弾いたものだけれど、最近はさっぱりだ。
「シャルル、バイオリン弾けるって言ってたけど、もしかしてピアノも弾けたりする? 弾きたかったら勝手に弾いてもいいよ」
 すぐに返事がないのを不思議に思って振り返ると、シャルルはぼーっと突っ立ってピアノを見つめていた。わたしが振り返ったのに気づくと、わたしに向かってなんだか違和感のある笑顔をしてみせる。わたしはぎょっとした。口許は笑っているけれど、前髪の奥の目が、全然笑っていないのだ。
「……シャルル?」
「……ちい……さ……」
 たぶん「小さいんですね」と言おうとしたんだろうけど、シャルルは途中で身体をくの字に折り曲げて口を押さえ、急にひゅっ、と大きく息を吸った。そこから呼吸の様子が明らかにおかしくなって、シャルルはその場に膝をつく。
 過呼吸だ。
 わたしは慌ててシャルルに駆け寄った。何千メートルも走り終えた直後だって、人の呼吸はこんなに速く、激しくはならない。ばあちゃんに助けを求めようかと一瞬迷って、大騒ぎにされたら嫌だよねと考え直し、シャルルの隣に屈んで背中に手を置く。隣に並ぶと、シャルルの背中は本当に小さくて、わたしよりずっと幼い女の子みたいに思えた。
「大丈夫だよ、だいじょーぶ、ゆーっくり息吐いて」
 昔自分が過呼吸になったとき、ばあちゃんがかけてくれた言葉を思い出しながら、忙しなく上下する背中をさする。服越しにもわかるほどひどい汗で、シャルルが今どんなに苦しいかと思うと、涙が出そうだった。きっと、突然知らない場所に来て、どうすればいいかわからなくて、疲れちゃったんだよね。この部屋で、やっと落ち着けそうになって、緊張が緩んだんだよね。そういうのを全部「いいよ、大丈夫だよ」に込めて、わたしはシャルルの呼吸が治まるまで背中をさすり続けた。
 長かったように感じたけれど、実際は数分の出来事だったと思う。シャルルは自分の呼吸が落ち着いたのを確かめるように、何度か深呼吸してから、前屈みだった上体を起こした。ふわっと、何か花の香りがした気がした。
「疲れたんだよね、休んでていいよ。今布団持ってくるから、ちょっと待っ――」
「あーあ」
 シャルルはものすごく低い声でわたしの言葉を遮った。わたしのほうに見向きもせずに立ち上がり、鞄を開けて、中からバイオリンを取り出す。
「結局こうなるんだ」
 シャルルの行動の意図がつかめなくて呆然とするわたしを、シャルルは蔑むような目で睨んで、バイオリンを構えた。
 音が鳴ると同時、わたしは身動きが取れなくなる。急に周りの空気が水になったみたいに重たくなって、視界が九十度傾く。目の前がぼやけて見えなくなる。床の感覚が消える。バイオリンの音だけが聴こえる。
 何も考えられず、何もわからないまま、わたしの意識はそこで途切れた。

   ◇

「それで、オレはどうすればいいのかな」
 オレは笑いながらルイに訊いてみた。ルイは両手をポケットから出して肩をすくめる。
「ボクにいい方法が思いついてたらとっくに実行してるさ。何かないの、あんた」
「んー」
 改めて辺りを見回すと、鉄格子の内側はまあまあ広いものの、灰色の床以外何もなく、ここは牢屋と呼ぶにしてもあまりにお粗末な作りだった。人間を人間として尊重する気のない場所だ。三日もいれば気が狂いそうだが、ルイに疲れたような様子は見えないし、ルイがここに来てからそれほど時間は経っていないんだろう。
「まあ脱出はできると思うけど」
 きょとんとした表情になったルイに、オレは伸びをしながら訊ねた。
「キミはどんな連中に捕まったんだ? なんか悪いことした?」
「うーん、ボクにもよくわからないんだけどさ」
 ルイは腰を下ろして、オレと同じようにあぐらをかく。動作がいちいち女の子っぽいんだよなあ、オレがたまたまもっと女の子っぽい挙動をする男を知っているから確信が持てないだけで、普通に女の子なんだろうなあ、と考えると、どうして男のフリをしているのか気になって仕方がなくなってくる。
「どうやら連中は向こうの人間に興味があるみたいだ」
「向こう?」
「ボクたちの故郷があるほうさ。こっちはいわゆるお伽噺の世界だよ」
 ルイの言葉に、それじゃあオレは異世界に来ることに成功しているのか、と思った。シャルルがどこで迷子になっているのか心配ではあるが、同じ方法で移動して極端に離れた場所に到着するということもないだろうから、無事にこっちにいるんだろう、たぶん。……たぶん。
「向こうの国の名前を言われたからさ、同類かと思ってうっかり出身をバラしたんだよ。そしたらこの有様」
 ルイは両手を挙げて首を横に振る。
「ボクをこんなところに閉じ込めておいて、見張りすらつけないでどこか行っちゃうなんて、奴らは何がしたいんだろうね」
「ふーん? オレも捕まらないように気をつけよう」
「……」
 ルイがじとっとした目で見るので、オレはとりあえずにこにこしてみせる。
「ルイちゃんが言いたいことはわかるよ」
 オレは立ち上がって鉄格子に近寄った。見た感じ、何の変哲もなくただの鉄だ。変な術がかけられている様子もない。
 なんだ、ちょろい、ちょろいなー。こんなの外に出るのに十秒もかからないじゃないか。オレは靴の中にいつも隠し持っている、指の長さほどしかない小さな折り畳みナイフを取り出して、その刃を出した。
「気持ち悪い呼び方するなよ、男だって言っただろ」
 ルイも立ち上がってオレの斜め後ろに歩いてきた。頭一つ分くらいオレより背の低いルイは、何をするつもりなのかと、オレの手元を見ている。
 おっと、近くで見るとなかなか可愛い顔をしているぞ、こいつ。
「ほんとに男? 言ったね? 男って言ったね?」
 ルイがしつこいなあと言わんばかりの顔で返事をするが早いか、オレはナイフを持っていないほうの手をルイの胸の上に置いた。と、とんでもない速度で左頬に平手打ちを食らって、オレは再び笑い出す羽目になる。反応早すぎ、胸があるかどうか全然わかんなかった!
「痛いなあ、男だって言うから……」
 顔を真っ赤にしてうろたえてくれたら面白かったのに、汚い虫けらを見るような顔をされた。一応人である身としては傷つく。オレが悪いんだけどね。
「失礼な奴だな、ボクの男装がいくら下手でも少しは察するとかしろよ」
 ルイはそう言うとオレから離れていってしまった。「可愛かったからつい」というオレの言葉は無視される。残念だ。
「悪かったよ、これで許して」
 カランカラン、と音を立てて床に落ちる鉄格子だったものの一部を見て、ルイはすぐに機嫌を直した。オレの手が届く範囲には入らないように警戒しながら近寄ってきて、「どうやったの?」と問う。
「切っただけだよ。何でも切れるんだ、これ」
 ナイフをしまって、オレは鉄格子の外に出た。本当に見張り一人いなくて、脱獄にはちょっとスリルがなさすぎるなあ、と思った。ルイもオレに続いて出てくる。
 さてさて、変な場所からスタートだけど、オレの異世界ライフの始まりだ。まずは迷子のシャルル探し。再会したらどんな言葉で罵倒されるのか想像しながら、オレは大きく息を吸い込んで、明るいほうへと歩き始めた。

   ◇

 何やってるんだろうな、僕。
 目の前で気を失って倒れているさゆりを見下ろしながら、僕はしばらく突っ立っていた。過呼吸は治まったけれど、まだ空気をまともに吸えていない感じがする。
 結局、自分の力を使う羽目になった。親切な彼女らのおかげで、僕はやましいことを何一つせずに、この部屋に置いてもらえそうだったのに。
「ごめんねアマリア」
 僕の独り言は随分小さく掠れていた。”彼女”を開いた鞄の中にそっと戻して、自分の汗がついてしまったあご当ての部分を布で拭く。僕は自分の、バイオリンを使う術が嫌いだった。普通に、きれいな曲だけ、弾いてあげたいのに。
 こことは違う世界で生まれた僕たちには、大抵生まれつき得意な魔法があって、僕の場合はこれだった。楽器を弾いて、その音を聞いた人間をある程度僕の思い通りにする。僕がこれを嫌うのは、狡いのもそうだけれど、相手に感づかれれば耳を塞がれて効果がなくなることが一番の理由だった。僕にもっと力があれば、耳を塞がれたくらい押し通せるはずだけれど、そこまでの力が、僕にはない。
(僕は、使えない)
 奥歯がギ、と音を立てた。鞄を閉じる。さゆりが外した小さなピアノのカバーを床から拾い上げて、かけ直すために広げると、よりによって薔薇の花柄だった。また呼吸の仕方がわからなくなりそうになって、僕はそれを裏返しにしてピアノに被せ、視界に入れないようにしながら、近くの窓枠に肘をついた。
 夕焼けが眩しくて、息を吐いて下を向く。周りに窮屈なほど並ぶ家も、生えている木々も、道路も、そこを走る何かも、見たことのないものばかりだったけれど、僕にはどうでもよかった。この世界で生活する気なんてさらさらなかったし、元の世界で生活する気だってなかった。どうでもいい、何もかもどうでもいい。シャノンの居場所さえわかれば、彼女と会って話せさえすれば――他のことは全部、今はもう、どうでもいい。
 さゆりには僕が過呼吸を起こしたことを忘れてもらった。病弱だとか、かわいそうだとか、そんな風に思われるのは不愉快で、迷惑だから。黙って僕をここに置いてくれればそれでいい。僕を心配して騒ぎ立てる奴なんか、世界に二人も三人もいらない。うるさいったらありゃしない。
 うるさいあの男はどこで何をやっているんだろう。ふざけんな、早く迎えに来いよ、と思う自分が、貧弱でちっぽけな存在に思えて苛立たしかった。まるで僕一人じゃ何もできないみたいじゃないか。いいや、何もできないわけじゃない、無知な人間なら騙すことはできるんだ……騙して、利用して、自分勝手に生きることならできるんだ。どうしてもっと人の役に立つ力を持って生まれてこなかったんだろう、本当に僕は――だめだ、思考がループしている。僕はもう一度大きく息を吐いた。空気が美味しくない。
 後ろで倒れたままのさゆりのほうを振り返る。早く目を覚ましてどこかに行ってほしかった。僕なんかに優しくするからそういう目に遭うんだ。何にも知らないくせに、家にいてもいい、だなんて。
(お人好し)

 僕が殺人の容疑で警官に追われていたことを知っても、彼女らは僕を追い出さないんだろうか。